2019年5月4日

市民とともに作る?

朝日新聞の社説から、朝日新聞社が危ういと感じている「反日の氾濫」について。確かに、朝日新聞阪神支局の事件は、言論弾圧に対しての重大な事件だと思うし、そう言うことはあっては行けないと思うけれど、似たようなことはこの朝日新聞を始め色々なメディアが「第4の権力」として最近著しいことに関してはどう思っているのだろうか。この記事では、在日コリアンに対しての反発から暴発した事件のように言われているけれど。

この当時よく言われていたのが、外国人登録制度による指紋押捺に関して、在日韓国系の人達は「植民地氏は無い云々」と反対していたけれど、結局現在では日本入国時に全ての外国人の指紋登録がされるわけで、それに対しての反対意見は彼らは言わないのだろうか。そういう経緯は別にしても、結局朝日新聞社やその他既存メディアは、逆に「反日」を利用して自分達の意見が恰も大多数の意見のような形で発信を続けて、自らに有利な世論形成をしようとしてきた、という疑惑にはどう答えるのだろうか。この阪神支局事件は、事件その物を否定するつもりは無いけれど、その後の報道も含めて客観的に何故そう言うことが発生したのかという検証はされたのか。結局は朝日新聞自身も「反日」という都合の良い言葉を核に、自分達の思い込みや都合で話を継続しているだけじゃ無いだろうか。

メディアの会社である朝日新聞は「反日が蔓延」する事の危惧をこの社説で憂えているけれど、じゃぁ事件発生から30年余り、自ら被害者となったこの新聞社は、その反日を払拭させる行為なり行動なりをどれだけ行って、どれだけその感情を解決することが出来のだろうか。正直、彼らはその反日気運を逆に増幅させているようにしか思えない。全てではないにしても、朝日新聞や一部のメディアの論調は、常に「反日の問題の原因は、日本の反省の無さ、謝罪しないことに対して、相手は怒っている」みたいな、日本人犯人説みたいな事を常に主張している。勿論、日本として正さないといけないことも多くあるとは思う半面、では相手の言っていることや行動は常に正しいのだろうか。相手の理不尽な言い分や行動を無条件で受け入れることは、決して相手を理解したことにはならないし、それで解決することも決して多くないはず。

言ってみれば、100%の解決策なんて言うのは人間同士の関係だから存在するはずはないと言って良いわけで、そこは80%なのか50%なのか、解決出来ない不満は飲み込んで折り合いを付けなければいけないし、それによって「解決した」と双方納得するのが大人の社会、人と人との関係なのでは。問題追求フェーズで問題点や疑問を指摘することは良いと思うけれど、一旦解決フェーズに入ったなら、そこは妥協点を探るべく双方言い分なり妥協点なりを提案していくのも、メディアの役目では無いだろうか。それこそが、自ら最後に結論として言っている、
国籍やルーツ、思想・信条などの違いを超えて、一人ひとりが互いに相手の考えを尊重しつつ、意見を交わす。日本国憲法が目指すそうした社会を、市民とともに作っていく。
に繋がるのかと。ただし、最後の「市民とともに作っている」という言葉には違和感を感じるけれど。よく左派系の人達は「市民」という言葉を使うんですが、これは多分"Citizen"の意味で使用しているんだろうけど、日本語の「市民」というのは、やはり「浜松市の市民」みたいな言い方以外ではしっくりこないと思う。さらに言えば、最後は「報道機関としての決意を新たにする」って、それって報道機関では無く「活動組織・機関」の言い方じゃ無いだろうか。社説の中には同意できる部分もあるけれど、結局最後の一言で、あぁこの会社は「報道機関の皮を被った活動組織なんだな」と何時もの絶望感で締めくくられている気がする。

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