トランプ大統領の大相撲観戦を伝えるメディアで、一部のメディアで批判的な意見を掲載しているのは良いのだけれど、その中の理由として「座布団も投げられなかった」みたいな意見を載せているのはどうなんだろうか。確かに番狂わせや、熱戦の後に、その試合や勝者を称えて座布団や色々なものが土俵に投げ入れられる光景は、大相撲の風物詩ではあるけれど、あれって別にその行為が正当化されているわけでは無いし、実際その場面になれば「危険ですから座布団を投げないでください」と何度もアナウンスが入るのは、見ていれば分かること。また、「神聖な場所」と誰もが認めている土俵上に、異物である座布団やその他のものを投げ込むことが、決して正しい行為では無い事は子供でも分かる話。だから、別にトランプさんが来たときだけで無く、通常の取組の時だって投げ入れることは許されていないわけで、そういう違法行為が出来なかったことが不満だったという意見が、正しい主張として受け入れて良いのだろうか。
座布団投げで言えば、「座布団が大統領に当たっても危険なのか」とか「厳重な検査をしているのに、座布団以外の物が飛んでくるのか」みたいな事を言っているコメンテーターがいたけれど、危険物持ち込みが100%防げると言えないから注意するわけだし、それを前提に座布団が投げられるならそれ以外の物も投げることが出来る可能性があるから制限している。そういう単純なことすら認めようとしないコメンテーターというか解説者というか、そういう人間に限っていざ自分がそういう制限される立場になると文句を言ってくるんだよなぁ。
今回のトランプ大統領訪日前に、この大相撲観戦の話を聞いたときに、「座布団、動かないように紐で縛れば良いのに」と思ったんですが、確か以前そんな対策をしているような話を聞いた記憶もあるですよね。床に紐を付けて固定するのでは無く、一枡4枚の座布団を紐かなんかで繋いで、大きな一枚の座布団みたいにすることで、一枚一枚投げられないようにするみたいな。まぁ、紐で相互に縛るくらいだろうから、その気になれば簡単に結び目をほどいてしまえるだろうから、意味ない気もするけれど。
いずれにしても、投げられる・投げられないという行為自体を、今回を機会に真面目に考えた方が良いんじゃ無いだろうか。別イベントとして、映画の「応援上映」みたいな感じで、良い勝負の時にはお捻りを投げるみたいなシステムの工業はあっても良いと思うし、それならそれでフィギュアスケートの演技後の縫いぐるみ投げみたいな、もう少し考えた方法にするか、土俵の周りに簾みたく透明な紐を張り巡らして、その隙間を縫って座布団が土俵に届いたら御利益があるみたいな事にするとか(マテ)。あるいは、その日最後の取組の終了時にのみ許されるとか、ね。いずれにしても、私達なんかは昔から見慣れているから不思議に思わないけれど、まだ勝負が続く場所に異物を投入するって言うのは、そのスポーツあるいは儀式に対しての最大限の侮辱なわけで、それを好意的に都合よく利用するっていうのは、一番信用できない気がする。
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