梅ですよ! 桜じゃないんですよ!万葉集に収録されている詩は、西暦の7世紀後半から8世紀後半の頃のものと言われているので、この頃はまだ桜はそんなにメジャーでは無く、「花見」と言えば「梅の花」だったというのはよく言われる話。今でこそ、花見と言えば「桜」、桜と言えば「花見」の代名詞だけれど、昔は梅の花や桃の花が一般的だったというのは、一寸調べてみたら分かる話。なんか、昔の話に今の話を被せて正当化するって言うのは、某方向性の人達がよくやる手法だけれど、一見正しいようで実は歴史をねじ曲げている行為だなと何時も感じます。
で、さらに、
梅が咲くのは一年でも最も寒い季節である。と言い切ってしまう。確かに梅の開花時期は2月から4月頃なので、タイミング的には正しいのだろうけど、「梅が咲くのは1年でも最も寒い季節である」というのはどうだろうか。これ、旧暦の2月だと今の3月ですし、2月3月ともなれば、時々春の陽気のような日もある。そう言う日に梅の花見をしていたと思えば、そんなに不思議では無いのに、何か極寒の中震えながら花見を無理矢理していたような言い方をするのはどうだろう。
また、一番気になったのが次の言葉で、
なんとその極寒の時期にノンビリ宴会。もちろんエアコンなんてない。これはどう考えても苦行である。なんで唐突に「エアコン」なんてでてくるんだろうか。この人、電気を使わない生活をしていることで有名な人ですよね? 確か自宅でも、冷蔵庫使わない、エアコン使わない、みたいなコラムを以前書いていて、そのくせ「コンビニは自分専用の冷蔵庫」みたいな事を言っていて、をぃをぃと突っ込んだ記憶があるんですが、そういう人が「エアコン」なんて言葉を普通に使うのが凄く違和感を感じる。それに暖房器具としてエアコンを例に出すのが、都会生活に染まっている証拠だと思う。本当に寒さ対策するなら、ガスストーブとか石油ストーブとか、もっと熱量の大きいものを使うし、それなら熱でお湯を沸かしたり調理したりも出来ますし。 それに、天気が良いから外で花見をして歌を詠み酒を飲んでいたのだろうから、当然その日の天候も良い日を選んでの開催だったはず。今のように、スケジュールありきで花見をするのではなく、条件ありきで花見をしていたのだから「風は柔らか」で問題無いはずでは。
そこから、自分の勝手な思い込みで厳しい冬を耐えたから、本当に僅か1mmの柔らかさ梅の花一つで自然に対しての恐れと感謝の気持ちが表れるという、随分強引な話を展開している。そして、そう言う感性から今の現代人が遠く離れていると嘆くけれど、それに近い生活をしているはずの自分はどうなんでしょうね。現代人は、暖かい服装もあるし、温かい食事もデリバリーされるし、暖かい暖房器具もあるから、気候にかかわらず花見もするけれど、昔の人達はそんなことは出来ないから、気候に合わせて一瞬の機会に春の訪れを祝っていたと思うんですよね。さらに最後にはお決まりの「便利さと引き換えに大事なものを失った」と言うけれど、その便利さの中には「健康」とか「職業」とか「安全」とか、決して単に享楽や自己満足のためだけに無くしたわけじゃ無い。それによって、助かる人も沢山いる中で、聞き飽きた言葉ではあるけれど一寸軽率な意見だなと何時も感じるなぁ。「便利さ」を排除して、「何か大切なもの」を見つけているはずの筆者なら、「何か大切なものを失ったので」の「何か」をちゃんと言えると思うのだけれど。
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