話題になっている、東京大学入学式での上野千鶴子氏の「祝辞」。実際に、その入学式に娘さんの付き添いで参加していた記者の方の話があるのですが、まさにタイトル通りの話で、これって結局は情報論の話に成るんじゃ無いだろうか。実は、同じ内容一語一句そのまま文字おこししても、実際にその場で聞いた時と後から文字で読む場合は、情報量としてはかなり違う。と言うか、後者の場合は、文字情報しか無いから、基本的な部分は伝わるかもしれないけれど、多くの属性が文字おこしされたときに喪失していて、だからこそ「読む」場合と「聞く」場合では、印象は勿論、実はその真意すら変わってくる場合があるんですよね。
例えば今回の場合は、祝辞としてその場の雰囲気のに沿っていたのか、また文字には表れない、強弱とか感情の挿入、さらには、文字の場合は何度も読み返しが可能だけれど、聞いた橋からどんどん消えていくその場でのスピーチを聞いた印象は、かなり違うはず。そう言う状況を考えると、聞いた時にはネガティブな印象であっても、後から読み返すとポジティブになっていることは不思議では無い。
でも、「スピーチ」なんだから、聞いたその時の印象が全てと言って良いのでは。これが、批評とか論文であるなら、読んで評価するべきだと思うけれど、元々は「祝辞」であり文字おこしはあくまで後からの副次的な情報伝達ですからね。例えば、落語なんかその最たるものだと思うけれど、あれは「聞いて」楽しむものだから、その内容を文章に起こされて読んでも全然面白くない。ラジオなら、まだ救われるけれど、テレビなんかでも一寸物足りない。前振りから、途中のあれこれ、そして最後にストンと落ちを入れて締めると言う、一連の動作話術が一つのプログラムみたいなもので、最初に話した枕がちゃんと最後の落ちに繋がるように印象を残して話が出来るか、と言う点が、名人と前座の大きな違いだったりするんでしょうね。
今回、上野氏の祝辞に関しては、TLを見る限りでは賛成や賞賛の意見が多いみたいだけれど、やはりその場の雰囲気も含めて評価するべきでは無いかなあ。少なくとも、動画で見て納得出来れば良いけれど、かなり印象は違ってくるんじゃ無いだろうか。ただ、情報がフィルターされて、消えた属性を自ら補完することで、新しい考えや意見が出てくることも、これも情報社会の一つの役割だと思うので、そう言う意味では「見て」「聞いて」「読んで」判断することが一番必要なんですよね。スピーチの内容よりも、「あぁ、社会は情報で出来ている」と勝手に実感した話でした。
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