2019年1月31日

全部の一部、一部が全部

兵庫県明石市長による暴言問題。最初にメディアで聞いた時には、「とんでもない市長だな」という印象しか受けなかったけれど、この記事による全体像が分かってくると、暴言自体は批判するべき事ではあるけれど、当初受けた悪印象とは大分異なる印象を受けますよね。さらに、この発言が二年近く前のことで、それが二ヶ月後に市長選挙を控えたこのタイミングに大きく取り扱われるという不思議さも、記事から初めて知ったこと。

もう一ついつも感じるのが、この神戸新聞は市長発言の全文を掲載しているけれど、文字だけから受ける韻書は、その場で聞いた印象とも、映像で見た印象とも異なるということ。文字に落とすと罵倒されたように感じる「言葉」でも、実は映像を見ていると笑いながら逆の意味で激励するために使っている「言葉」なのかもしれない。浜松では「凄い」とか「大きい」とかの意味で「馬鹿」という言葉を使うけれど、それを単に文章に書き起こして、そう言う方言を知らない人が読んだら、全く別の印象を受けるのと同様で、やはりその場での「話し言葉」と、それを書き起こした「文章での言葉」は違うものと考えないと難しいだろうなぁ。

今回、この記事を掲載した神戸新聞の記者は、AbemaTVの取材の中で、
「発言自体は許されないことだと思うが、言葉尻だけを切り取って伝えると、報道としての公平さを欠くというか、市民の方の判断材料にならないと思った。」
 と答えていけれど、まさにこれが「メディア」「報道」の使命と言って良いのでは。大手の新聞記者の中では「真実を伝える」とか「自らが正義」みたいな立場で、自分達の意見を表明しているメディアが多いけれど、そうじゃないでしょうというのは何度も言っている話し。報道がするべき仕事は「事実を伝える」ことであり、それを見聞きして判断するのは読者であり視聴者であるものの仕事。あの新聞社とか、あの記者には、この神戸新聞の爪の垢でも煎じて飲んで欲しいところ(笑)。

メディアの話になると、最近ではガッカリすることばかりだけれど、今回のこの神戸新聞の行動は久しぶりにメディアのメディアらしい仕事を見た感じ。地方紙が出来て、全国紙が出来ない理由は何だろうなぁと、ますますメディア不振になる事には変わりないのだけれど...

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