「兼高かおるさん逝く」という訃報。記事には肩書きとして「旅行ジャーナリスト」と書いてあるけれど、何かしっくりこない。個人的には「永遠の旅人」とか「世界人」とか、なんかそんな言い方の方が相応しい気がする。
自分が生まれる前から始まっていた「兼高かおる世界の旅」を見出したのはいつからだろうか。当時の地元浜松の地上波は、NHKの総合と教育、そしてTBS系列の静岡放送(SBS)の3局しか無くて、だから日曜日の朝だったかな、毎週この番組を子供ながら見ていた気がする。特に、番組の最初に、当時のパンナム機が離陸していく光景は憧れだったわけで、その時の記憶の刷り込みが影響して、今のFFP/FSP修行のDNAが生まれたのでは無いかと(マテ)。
その憧れのパンナムは、丁度私が就職するくらいの時に経営悪化で太平洋路線を旧UAに売却して日本から撤退していたんですが、それでもまだ番組の協賛みたいなかたちで画面には登場していたはず。1990年代にパンナムが倒産すると、確かSASに変わったと思います。で、一度はパンナムに乗ってみたかったなぁと思っていたんですが、確か二回目の米国出張の時、帰国便でMiamiからL. A.経由で成田に帰国したんですが、このMIA-LAXを、南米から飛んできてLAXに行くパンナム機を利用して、一度だけ搭乗したことがあります。当時の海外出張は、まだバブル崩壊前で、自分みたいな入りたての新入社員でも、エアーチケットはフルフェアのビジネスクラスが利用できたので、帰国便に関してはスケジュールもルートも全部「オープン」で発券して、帰国予定が決まってから予約を入れていました。当時は、フロリダ州の研究所に仕事でいたんですが、帰国するときはMiamiまでレンタカーで移動して、そこで一泊してから、MIA-LAX-NRTと移動したわけです。飛行時間は、5~6時間位だろうか。使用機材は、国際線用のB747でした。ずっと、番組のテーマソング「80日間世界一周」のメロディーが頭の中を流れていたなぁ(笑)。一寸、あの番組の中の兼高さん気分を味わうことが出来ました。
あの頃は、兼高さんは毎週世界の何処かに行っていて凄いなぁと子供心に羨ましくも凄いと感じていましたが、よくよく考えたら、今ならイモトアヤコなら負けないかもしれない(笑)。でも、兼高さんは英語も堪能だったから、やはり英語は出来ないと世界旅行は出来ないなとも思ったりもしましたねぇ。あの頃は、「英語会話辞典」とか、日本語と英語が並記された会話集みたいなものを何冊も持参していましたが、今では携帯式の翻訳機とか、スマホでも翻訳出来るし、かなり環境は変わりましたよね。そうそう、チケット予約だって、当時は旅行代理店経由で発券して貰いましたが、今では自分で全部予約から変更まで可能だし。
旅する喜びを教えてくれた、兼高かおるさんとあの番組に感謝です。合掌。
こんにちは。
返信削除私もこの番組、覚えています。最近はBSで再放送していて、いくつか録画しています。
パンナムは高校生の時に乗りました。初めての海外が、いきなり1年の高校交換留学で、東京からJFKまで乗りましたが、何故か何も覚えていません。座席番号は、シールで貼ってた頃ですね。今はエコであの距離は無理です(笑)。TWAもありましたね。テレビadのコマーシャルソング、今でも覚えてます。
フロリダの研究所ですか…たぶん、うちの息子も働いている会社です。フルフェアC、当時はさすが、太っ腹だったのですね。
luluさん、コメントありがとうございます。実は私も高校生の時に、カナダへの夏休み短期留学のプログラムに応募しようとしたときがありました。ただ、当時はうちはそんなに裕福じゃ無かったので諦めたんですが、数年後母親に話しをしたら「それ位の余裕はあった」と言われて、ショックを受けたんですが(笑)。あの時に応募していたら、パンナムで飛べたかもしれません。トランスワールド(TWA)もありましたねぇ... 結局初の海外旅行は、入社して4年目のアメリカ出張で、NRT-DFWのアメリカン(AA)でした。帰国便は、IAD-NRTのANAでしたが、IADで機材トラブルが発生して10時間位待機になり、成田のクローズぎりぎり(というか、超過していて23:00頃に着陸)で戻ってきて、大変でした。まぁ、そんなトラブルも今では良い思い出です。
返信削除「フロリダ」にも結構日本の企業が進出していたので、ご子息さんと同じ会社かどうかは分かりませんが、リタイアして柵みも無くなったら、最後の余生はフロリダで終わるのも良いかなとちょっと思っています。