2018年7月8日

死刑執行

オウム真理教関係者の死刑執行に関して、その是非や賛否がTL上で幾つも流れています。この件に限らず、いつも何らかの事件が発生して、被害者と加害者が生まれたとき、いつも思うのは「被害者が受けた被害に対して、加害者に対して行われる刑罰は軽くないのか」ということ。例えば、詐欺犯罪のような場合は、だまし取られたお金や、それに対しての補償を受ければ、まぁリカバブルなのかもしれない。でも、障害事件に遭遇して、例えば手足が不自由になった場合、仮にそれに対しての金銭補償が認められたとしても、それは無くなった手足の不自由さの代償なんだろうか。あるいは、殺人事件で被害者は命を奪われるけれど、加害者は必ずしも死刑判決を受けるわけでは無い。余りに不公平な感じをいつも受けます。

今回は死刑判決を受けた関係者が13人いて、その半分7名の執行が今回行われたわけだけれど、それだけ今回の一連のオウム関連事件の内容や規模が大きかった証しでしょうね。松本サリン事件、坂本弁護士殺人事件、地下鉄サリン事件、この三つだけでも死者は20名を超えて30名近いと思うし、さらに後遺症を含めて苦しんでいる人は何百人、何千人といるだろうし、「犯罪」と言うよりは、やはり「テロ」と言うべき行動だよなぁと改めて感じます。それだけ、今回の死刑執行は重い意味を持つものだとも言えるけれど、結局は彼らの命を奪っても無くなった人が戻るわけでも無く、言い方は悪いかもしれないけれど、事件から23年間は生きていたことを考えると、今回死刑執行されたけれど何か釈然としないものを感じます。

一方で、地元では袴田事件の再審が今も続いていて、こちらは逆に新しい証拠を採用どころか検証もまともに行おうとしない司法に対して不満が高まっているけれど、証拠が曖昧な袴田事件と、裁判などを通じてそれぞれの役割や経過がはっきり示されているオウム事件とは異なるもの。死刑執行に関しては、その犯罪内容よりも「人権」という事で海外から批判も受けていると言うけれど、それもどうかと思うし。変な話だけれど、場合によっては犯人を射殺することも躊躇しない欧米から、23年間も裁判を続けてその結論としての死刑執行では、全く意味が異なる思うのだけれど。

もう一つ感じるのが「あぁ、宗教戦争とか、宗教は麻薬というのは、こう言う事なのね」という事。麻原氏の遺骨などを巡って神格化がさらに進むのでは無いかとか、逆に今回の死刑執行を社会の弾圧として、元々の事件を知らない若者世代に遡及していくとか、いつか何処かで見たような光景が浮かんでいきます。宗教というものが人々の人生や社会生活で重要な位置を占めるものであることは理解するけれど、何処かで線引きしないと行けないものであることも、今回再認識したような気がします。

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