2018年6月26日

エビデンスと定量的事実

永江一石氏のコラムから、エビデンスに基づく説明について。一応理系人間で仕事も技術系の自分としては、うんうんと激しくヘドバンする内容(笑)。個人的に恵まれていたと思うのは、元々は地方都市の田舎の生まれだったけれど、何故か小学校に入る前位から電気に興味が沸き(豆電球に乾電池を繋いで付けたり消したりして喜んでいた)、その後学研の「科学」とかSF小説で火がつき、高校も理系コースに入り(これは、歴史とか暗記物が苦手だったからという理由も...)、技術系の理系大学に入り、一応エンジニアの端くれとなり仕事もして... その中でも、就職した会社が外資系の技術部門で、いきなり新入社員の頃からアメリカのエンジニアと泣きながら英語で会議をしたり、仕様書を書いたりしなくちゃ行けない状況に放り込まれたこと。

英語だから日本語の言い訳は通用しない。相手も容赦なく質問とか追及をしてくる。「あ、うん」とか「つーかー」なんて全く通用しない世界で、いかに自分の主張なりアイデアを相手に納得させるかとなれば、兎に角自分の考えの方が利益がある、効率的である、スケジュール二コミット出来る、と言う「事実で説得」するしかないんですよね。しかもその時には、具体的な数値で話をしないと、単なる推測とか願望だと直ぐにひっくり返されてしまう。その頃よく先輩に言われていたのは「アメリカ人には数字に説明させないと駄目」ということ。具体的な数値で相手よりも優っていることを示さないと、相手は納得しないと言う事なんですが、逆に日本的に持った数値を出して採用されてしまうと、今度はそれを達成できないときに大きな責任が発生してしまうから、下手に根拠の無い数値も出せないし。

だから、ちゃんと理由のある数値を出して、それを元に説得しないと行けない。あの頃は、ミーティングとなれば、やれGartnerがとかIDCがとか、著名な調査会社のデータを元に話しをするんだけれど、時々両者が相反する数値を出してきたりする。調査情報だから、場合によっては異なる結果が出るのは当然なんだけれど、その時に選択する理由をどうするのか、それをこちらの利益に結びつけるためにどう説明するのか、苦労の連続でしたね。昔はデータが限られていたから、限定された数値で説明しないと行けないけれど、今では様々調査結果や過去のデータがかなり豊富に自由にアクセス出来るから、色々説明のバリエーションも広がるけれど、逆にそれらのデータの読み方と租借の仕方は難しくなってきている気がする。

これは、情報評価全般に言えることだと思うけれど、人間どうしても自分にとって都合の良いものを優先し都合の悪いものには触れないようにするもの。だから、無意識のうちにそんな感じでサンプリングして、実は底量的な話をしているようでベクトルがズレていることも結構あります。そういう時に自分に厳しく客観的に評価できる知識と経験が必要なんですよね。なかなか難しいけれど。それは、エビデンスにも言えるわけで、最近よく新聞等で見かける、事実は報じているんだろうけど、その中の一部をつまみ食い的に組み合わせたり、意図を誤解させるような構成にすることで「エビデンスは正しい」と言ってしまうこと。そう言う場合の「エビデンス」は、その共通の情報に対して複数のデータやソースから入手して比較してみることで、そう言うことが可能なったのはやはりネットワークが拡大して充実してきたことが最大の理由だと思う。だからこそ、レガシーメディアはこれまで通用した手法が欺瞞だと世の中で分かってきても、過去の成功体験が忘れられないのか自分達が正義だと大きな誤解をしている。いゃ、誤解では無くて意図的なのかな。さらに言えば、ネットは広い意味で双方向だけれど、レガシーメディアは出しっぱなし報道しっぱなしの世界。勿論、ネットを通じて反論できるけれど、同じ土俵で総合会話出来ないとなかなか相手の間違いが認識されない。でも、レガシーメディアが徐々に衰退し土俵がネットに移行しつつあるから、それも今後変わっていくんだろうけど、今でもそれなりの力がレガシーメディア似あるのが最大の問題かも。

で、そう言うエビデンスとか定量的な説明を心がけれど、良くある延髄反射的な反応も減ってくるんですよね。それに、何でもかんでも反応しようとすることも物理的に出来なくなるから、重要度の低い情報には反応せずに聞き流すことも出来るようになると思うんですよね。反応が無ければ、悪意ある情報や虚偽の情報もそのまま消えていくわけで、ネットの世界もそれなりの秩序と平和が訪れると期待しているんですが、裾野が広がれば広がるほどそうで無い人の流入が増えるわけで、それはそれでのぞしいのだけれど、ネットは別人格な事も多いのが困りますよね。まだまだ混沌の世界が続くのだろうか。

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