2018年4月13日

「備忘録」なるもの

最近世間を騒がす「備忘録」なるもの。言ってみれば、個人的メモ、あるいは手元の記録というもので、多分どんな組織であっても正式な書類文書の類には分類されない物。その作成者が「その様に考えた、理解した」という記録を個人あるいは少数の人間の間で共有する類の物。それが、恰も日本をひっくり返すような物のように一部メディアでは扱って、連日上を下への大騒ぎをしているんだけど、その内容ではなくそう言うものが「有る」という事だけで社会を引っかき回そうとしているようにしか見えない。その内容にしても、愛媛県知事も、作成者は特定したみたいだけれど、その本人もその内容に関しては明らかではないみたいで、それはそうでしょうね、その時のメモ書きなんだから。多分、その時の出張報告の為にまとめた内容じゃ無いかという気が個人的にはしています。

さらに不思議なのは、記載された日付から、この備忘録が訪問後10日程後に作成されているようだという事。普通は、当日あるいは翌日くらいにまとめる物で、それは記憶に頼って内容をまとめるから。可能性として、内容は既に記載して居たけれど、それを提出するあるいは公開共有刷るときの日付けとして10日後の日付けを入れた可能性はありますよね。それは、日にち部分が手書きで有る事からも、内容自体は事前に作ってあったけれど、それを公にする日が未定出、だからそこだけ空欄にして、その時に日付を入れたと言う可能性もあります。あくまで「備忘録」だから、わざわざまた編集して日付を入れて打ち直すと言う面倒なことすらやらないという事も有りうる話。

「備忘録」は、あくまでその本人の理解を記載した物だから、場合によっては相手方の理解とは異なることもあります。ニュアンスの理解の違いというか、自分に有利なように解釈する場合も有るし、逆に否定的に解釈する場合も有るわけで、それはその時々の立場や状況で変わるもの。もし、相手方と共通認識を記録するのであれば、同一文書を双方でレビューをして「覚え書き」として署名するはずで、その内容が双方で違うのならば問題だけれど、備忘録なるものが相手の理解と違うことはあり得ること。今は、会ったか会わなかったかのYes/Noを求められているけれど、記憶違いと言う事だって有るわけで、書いた本人も忘れているような内容を、さらにその相手に聞いても仕方の無いこと。それを最重要課題のようにことさら取り上げている野党とか一部メディアは、だから別の目的があるとしか考えられないんですよね。

森友学園問題も、元々は昭恵夫人の口利きがあったかどうかと言う話が、今では不当な価格での売却話になっていて、それって財務相、さらには近畿財務局の話しに矮小化しているのに、未だに総理の責任に無理矢理しようとしている。加計学園の今治獣医学での話にしても、元々は総理のお友達認可と言う事が、時系列的に見ればそんなことは出来ない事は既に分かっているのに、今では認可手続きの話にこちらも矮小化されている。既に、元々の話とは別の話になっているのに、そうしてしまうと自分達のミスや不手際となるから、野党もメディアもそれを認めずにひたすら総理の責任という形で追求しているけれど、それで与党の支持率が下がっても決して野党の支持率が上がらないことが、国民の冷静さを示していると思うなぁ。変な話、民主党が政権を取る前は、何をやっても支持率が動いたけれど、今は何をやっても動かない。それだけ、民主党の罪は大きいし、未だに国民はそれを忘れていないという事を野党=元民主党関係者、は肝に銘じるべきですよね。

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