2018年3月26日

競争の時代

読売新聞の社説より、放送法の改正は番組の劣化と信頼失墜を招くと言う主張。まぁ、言いたいことは分かるんだけれど、デモ行為右派無しが出てくるというのはある意味自業自得というか自分達が招いた結果でもあると思うんですよね。確かに、ネットという新しい情報伝達手段が誕生して状況が変わってきていることは事実だけれど、やはり「情報伝達者」としての信頼性が、特にレガシーメディアに対して疑念が生まれてきていることが、こう言う話が大きくなってきている理由だと思う。

実は、これまでもそうだったかもしれない。特に戦前の第二次世界大戦に走る動機の一つとして、当時の新聞社が国威発揚で盛り上げたと言うのも大きな理由だったように、今でも特定の意見なり考えを強調する嫌いは多く残っている。それが、昔は比較する物が無かったからそれが「事実」として信じるしか無かったのが、今ではネットで比較参照できるし、何時でもそれを呼び出すことが出来、さらにはリアルタイムでの参照も出来るようになってくると、レガシーメディアとしても単に身近らで煽って広げてお終いというわけに行かなくなってきたのが現代じゃ無いかと。多分に、本来は「事実」を伝えるのが仕事だったはずのメディアが、「真実」とか「正義」とか、そこに主観的なバイアスをかけ始めたのが、今に至る間違いの原因では無いかと。

確かに、今のネットは混沌としているけれど、それは情報量が既存のレガシーメディアと比較して格段に多いから。多分、そこにフィルターをかけて「事実」だけ拾い上げてみたら、既存のレガシーメディアよりも多くの物が見つかるはず。それだけ今のレガシーメディア、特に新聞とテレビに関しては、「真実」と言う名前の商品を売るために、ありとあらゆる装飾品を付けて飾り立てて売り出しているような印象を受けますね。

本来「メディア」というのは媒介者であって、主張者では無かったはず。勿論、記事として何らかの主張を行うことは悪いことでは無いし、言論形成という意味では自社の主張なり意見なりを言う事も必要だと思う。ただ、今の記事を見ていると、自社の主張とか意見と言うよりも、自社の思惑を怪しげな正統性の説明で来るんで大見出しで見せているようにしか思えない。言ってみれば、華美な包装紙で包まれているから高級品と思わせて、実は中身は特売の賞味期限切れの物だった、みたいな。世の中には、簡易包装でコストを下げつつ、その分品質に回すお店もあるわけで、そういう意味ではレガシーメディアはもっと競争にされられるべきだし、その一つとして特定の意見や主張を中心にする形式になっても良いと思う。少なくとも、今のようにそんな傾向を見せているのに「公正中立です」と嘘を言うよりは。

情報伝達手段が、口づてしか無い時代から、文字が生まれて印刷媒体に代わり、そこから電波を利用したラジオ、そしてテレビが誕生していく。さらに、ネットが誕生して、実は一番最初の口づてコミュニケーションが一大変革して今世の中に広がっているわけで、となればそれ以外のメディアも時代に合わせて変革していくべき。筐体以前の姿勢や方法をいつまでも「善」とか「正義」という怪しげな理由だけで維持することは、それは時代に逆行する行為だと思う。

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