昨日の共同通信社の問題、擁護する側では、事実が明らかになったら修正していくのはこれまでもやっているし当然のこと、見たいな話が出ているけれど、それって「古い紙媒体での話」でしょ。例えば新聞の場合、物理的に印刷することと配送することが必要だから、印刷所から遠い地域には早く印刷して配送しないといけないし、逆に近い場所にはぎりぎりまで印刷を待つことが可能。だから同じ新聞社の同じ日の新聞紙面であっても、地域によって内容が異なることはこれまでも知られている話。ただ、その場合は同じ日の新聞であっても「第何版」という言い方で履歴が残るわけで、そういう意味では変更の管理が有る程度分かる物。ただ、最初に印刷した版で間違いがあった場合には、最終版迄に修正・訂正して印刷すれば「セーフ」という事も有るらしい。逆に特ダネを入れる場合には、最初の版に入れて他者に抜かれないように、最後の方に突っ込む場合も有るらしい。いずれにしても、記録として残るのは最終版なので、その内容というのがその日のその新聞社の「正式記録」になると言える。
その乗りで今回の記事書き換えをしたとしたら、それは彼らの理解の中では「これまで通り」なのかもしれないけれど、リソース(媒体)が異なることをもっと認識しないと。同じURLで別の内容に書き換えたことを「修正」というのであれば、それならば以前の新聞発行の場でも、既に配布された版の地域にも最新版を届けていたのか、と聞いてみたい。それならば、今回の行為も正当化されて良いと思うけれど、そんなことはしていないし出来ない訳で、そこに彼らの理解の甘さ間違いが有る気がします。
これまでの新聞の場合でも、最初の版を配達された人と最終版を読む人出はないように違いがあるわけで、場合によっては真逆なことが書かれているかもしれない。ただ、そういう差分は別のメディア、例えばテレビのニュース番組であるとかが迅速性で補完できるだろうし、だからこそ新聞社と放送局が一体運営されている、とも言えます。でも、彼らは認識しているのかしていないのか不明だけれど、今の時代はネットの時代で有り、様々な分野の様々な所属の人が様々な理解や認識に批評を自由に配布できる時代。そこに旧来の物理的制約の大きい「新聞の論理」を持ち込んでも、それはお門違いな話なわけで、当然彼らが正されるのは当然だと思いますね。
レガシーメディアの組織が、色々な人材を抱えていて、その中には素質ある人能力ある人も多いとは思うけれど、結局は目立つ人が全ての様な様子になってしまった。以前のように、ネットが無くて新聞だけなら当然記事の内容で評価されて購買契約にも繋がっていったと思うけれど、今のようにそれ以外の情報入手方法が存在していると、内容だけではなく「見た目」で飛びつく人も多いわけで、それって言ってみれば性能だけでは売れない商品がデザインや見た目に拘るようになるのと一緒。となると、あの新聞のあの人とかこっちの新聞のあの人見たいな「名物記者」みたいな存在が大事になるんだろうなぁ。何か、これまで業績不振で倒産したり廃業していった数々の企業の後追いをしているような印象しか感じなくなってきた...
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