今更ながらの話題ですが... たまたま覗いていたTLで、少し前に話題になったダウンタウン浜田雅功氏がエディーマーフィーに分したコントが黒人差別に繋がるという話で、それならば昨年末のNHK紅白歌合戦のウンナン・ウッチャンのオープニングコントで「暴力・差別・圧力・忖度」と書いた紙を胸に貼り付けた、黒装束の人達も同じでは、という話が出ていました。紅白見ていないので何のことやらと思いつつ調べてみたら、こんなことやってたんですねぇ、知らなかった。この、全身タイツ(全身ゴムスーツ?)の状態を「アフリカン・アメリカン」と見るというのは一寸厳しい気がするけれど、例の「浜ちゃん騒動」の後だと、そう言われても仕方ないなと言う気もします。
ただ、このNHKの演出が先の浜ちゃんマーフィーと違うのは、前進全て黒く覆っているから、「彼らは『黒子』なので、存在しない」と言えるという事。勿論、歌舞伎とか浄瑠璃等で登場する本来の「黒子」さんの衣装とは違うので、同じものというのは無理があると思うけれど、あれはあれで「目も鼻も口も無い影のような存在」とか、いろいろ言い方説明の仕方はあると思うんですね。まぁ、いずれにしても「悪=黒」という位置付けに関しては、「=黒人」を想像させることも事実だし、大体それらの悪いことを結局はウッチャンが「力でなぎ倒す」事を、NHKは良しと考えているのだろうか。そこはメディアであるならば、ウッチャンが新聞記者よろしく悪の行動を記事に書く振りをするとか、テレビカメラ見たいな「武器」を抱えて、それらの様子を「放送する」とか、茶番劇なんだけどNHKとしての本来の方法で相手を倒さないといけないのでは。結局NHKも力には力で対応すると言う「権力志向」を再認識させただけなんじゃ無いだろうか。まぁ、ウッチャンと言えばジャッキーチェンのものまねのアクションが知られているから、それにも引っかけたんだろうけど。それと「暴力・差別・圧力」までは良いけれど「忖度」っていうのも、それらと同列に戦い無くすべきものか?
「忖度」の意味は「他人の気持ちを推し量ること」で、それ自体は悪いことでは無い。ただ、推し量ることが過度になれば、問題が生まれるかもしれないし、推し量る方向性が違えば迷惑になるかもしれない。何事も適量適度と言うものがあるわけで、それを超えてしまうとどんなに正しいことでも、問題や障害になることはどんなことでもあり得ること。多分「過度な忖度は問題である」と言いたいのかもしれないけれど「良い意味での独裁」「悪い意味での正義」みたいなニュアンスを彷彿させるわけで、何かしっくりこないんですよね。
TLの話を眺めていて、個人的には浜ちゃんマーフィーの件と、このNHKのウッチャン活劇は全く別の話だと思うわけで、そこを混在させてはいけないんじゃないだろうか。ただ、NHKの演出に関しては「一寸過ぎている」という印象を受けますけれどね。だってメディアの役割は「事実を伝える事」であり、その存在している事実に対して「何らかの影響力を行使する」事では無いはずだから。必要な事は、その事実を見た聞いた視聴者が考えて行動することなんだから。それはともかく、あの演出が「紅白歌合戦」の何に繋がるのかは理解出来ないけれど...
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