2017年12月27日

エビデンスなき主張

昨日の朝日新聞高橋純子氏の日刊ゲンダイのインタビュー記事は、各所で物議を醸している様子ですが、殆どは反対意見ばかりの雰囲気。で、流石に拙いと思ったのか朝日新聞デジタルの方が、その「エビデンス? ねーよそんなもん」発言の元ネタ(彼女の著書「仕方ない帝国」から)を「エビデンス」として投稿しているんだけど、これで反論あるいは少なくとも彼女の主張の正統性が説明出来ると思っているのだろうか。

該当部分は、8行ほどの段落での主張で、著者(=高橋純子氏)は、読者に気に入られる記事を書くのではない、読者の思考を揺さぶるようなものを書きたい。そこを譲ると、自分の中で何かが変わってしまう。その何かは何かとしか言いようのないもので、それに関してのエビデンスは無い。と言う部分。ここまでなら、彼女自身が自分の信条として持っているものに関して、理由や根拠は無いのだけれど、それを大切にしたいという、まあその信条の善し悪しは別にして、その考えは有りかなと思う。ただ、その直後に、目に見えないものを大事に思う事でこの世界のある部分は成り立っているけれど、それを説明したり理解して貰うことは難しい。損か得か、結果だけ、数字が全て、と続けている。前半の、世の中は目に見えない大事なもので成り立っていること、と言う話は同意するけれど、それを説明することが難しいからエビデンス無しの話であっても、自分が「正しい」と思えばどんなことも許されるような論調になっている気がするんですよね。

その見えないもの、理解が難しいものを、解きほぐして視覚化したり、説明をして批評する論評するのが、記者の仕事では無いのだろうか。勿論、記者以外の人達だって、色々な職業や分野で同じ事をやっているわけです。科学技術は、単に革新的な技術であろうとも、それが普通の生活の中に下りてこなければなかなか理解されないところがある。法律関係でも、その内容は正しいものかもしれないけれど、裁判等で実際に場合場合で適用を考えないと、事実に寄り添ったものにはならない。情報だって、単に百科事典に書かれているだけでは、印刷物ではあるけれど、それを引いて考える、参照して比較して判断する、そういうものを説明して順序立てて論理的に組み立てると言う事で、初めて我々の生活の中に生かされるわけで、そこを何のエビデンスも無く、自分が「これが正しい」と思ったことだけを主張するのは、単なる我が儘、プロパガンダと変わりないのでは。

過激的な人達、あるいは「反○○」を主張する人達って、自分達が「正しい」と考えることに関しては、既存のルールを破ることも正当化されると考えているようにしか思えない。この人も、自分のコラムなり論評として書籍を書くのであれば、それは全く個人の自由だけれど、新聞社のそれなりの地位にある肩書きで紙面で書くという事は、結局はその新聞社もメディアとして認めていたことになるわけで、結局は彼女個人の考えでは無くメディアとしての総意である、と取られても仕方ないのでは。仮に、彼らが何らかの理由なり材料があって、有る事を主張するのは有りだと思うけれど、それが理由無き憎悪であったり、意図的な攻撃であるとしたら、それはメディアではなく社会不安を煽るだけの無秩序集団と言われても仕方ないように思いますね。ある意味、よくこの新聞社が言われる「捏造」とか「虚報」よりも、質が悪い気がする。

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