日本維新の会の足立康史議員というのは、個人的には面白い人だなぁと思うけれど、一寸猪突猛進というか唯我独尊というか、京大工学部を出て通産官僚になった人が、もう少し論理的な話・説明を出来ないのかと残念至極。で、今回は売られた喧嘩は買わないといけないとばかりに「朝日新聞、死ね」と騒動に。さらには、委員会で野党議員を犯罪者とまで言ったらしいけれど、それは別の話として今回はこの「朝日新聞」の話。
いろいろな意見が出ている中で、この梶井彩子さんという方の話が一番個人的にしっくりくる感じ。足立議員が朝日新聞を追及することに異論は無いし、個人的にもこの新聞社の今の状態というのは何か変だと思うけれど、だからといって「間違っている」と言っている相手の土俵にわざわざ下りて同じ程度に間違ったような反応をしたら、そりゃぁ戦略を誤ったというか、相手に合わせたら負けじゃ無いかと思うんですよね。相手が間違っているからこそ、それが俯瞰出来る場所から、同じ視点からでは見えない反論・反証をすることで、相手の間違いが分かるわけだから。それが「死ね」という罵倒語の正統性みたいな話になってしまうから、本来の話が全然進まないし隠れてしまう。
地元の方言で「馬鹿」というのが「凄い、大きい、とっても」みたいな意味で使われるんですが、それを知らない他の地域の人が聞くと、凄くビックリします。最初の「日本死ね」も、多分保育園に入れなくてイライラした気持ちが、個人的にでてしまった、吐露したものと言う意味では分かるし納得出来るけれど、それを政治批判の道具に使い始めたことで、この「死ね」という言葉のニュアンスが変わってきたことも事実。さらには流行語大賞までとってしまって、今別の意味で話題になっている山尾議員が何か正義のヒロインみたいな形でこの言葉のオーナーになってしまったから、今では全く違う意味の「怪しからん、対応必要、反省しろ」みたいな事で「死ね」と使われる事も多くなったんじゃ無いだろうか。そういう意味で足立議員が「朝日新聞、死ね」とtwitterに書き込んだ気持ちも分からないでは無いけれど、そこは自分の立場なりを考えれば、避けるべきだった。せめて「朝日新聞、万死に値する」くらいならまだしもね。
コラムの後半に登場する、朝日新聞高橋純子氏のコラムも輪を掛けて酷いけれど、自分で自分に酔ってしまった相手に何を言っても無駄なのは、酔っ払って泥酔している相手に説教しても逆に激高してくるのと同じで無駄だし無意味。それよりも、相手が冷静なときなその時の様子を見せながら理路整然と声明して理解させることの方が重要。最も、そんなちゃんとした方法で納得する相手なら、最初からそんな面倒な事はしなくて済むわけだけれど。まぁ、相手の土俵に下りてしまった足立議員だけれど、朝日新聞はどうするんだろうか。メディアなんだから、紙面で正統性を訴えるべきだと思うけれど、多分いつものことで自分達が主張するのでは無く、周りの御用学者とか御用コメンテーターを使って援護射撃をさせて正義を訴えるんでしょうね。それはそれで、メディアとして言論機関の一つとして敗北だと思うけれど。結局は、どっちもどっち、低俗な争いだなと誰もが再認識して終わりそうな気がする。
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