2017年10月16日

フェイクの時代

土曜日夕方の放送にも驚いたけれど、昨日日曜日朝の情報番組「サンデーモーニング」でも同じような事があったという記事。もう何年も個の番組は見ていないけれど、たまにチャンネルを変えているときに映ったりして、その一瞬だけでも画面からにじみ出てくる重苦しい何か眉間に皺寄せて全ての苦労を背負い込んでいるような雰囲気に寒気がします。個の番組に対しての批判もよく見るけれど、まぁ然もありなんというか。で、流石に「野党に入れなさい」と言うようなことは言えないけれど、戦前の予想以上に与党、特に自民党が議席を減らすどころかもしかしたら増やすかもしれないという状況が調査で分かってくると、段々と遣り方が節操なくなってきますね。

昔の選挙の時には、勿論相手の悪口というか問題も指摘することも多かったけれど、それ以上に良くも悪くもバラ色の政策を見せて有権者の気を引こうとするのが、与党も野党も一番の手段だったはず。それが何時の頃からかだろう、「xxは独裁だから止めさせろ」「反xx政権」みたいな、相手の否定しか言わなくなってきたのは。相手を否定するだけじゃ、そこで止まるだけで、そこから先は何も生まれないのに。

問題なのは、そういう声が個人とか一般の人達の物であるなら、それは人それぞれの意見だから仕方ないけれど、仮にも「第四の権力」と自らうたい、社会正義みたいな事すら言うメディアが、自ら公平とか中立性みたいな物をかなぐり捨てて、どんな理由があるのか分からないけれど、過激的な攻撃的な勢力に荷担しているというのが疑問でしか無い。フェイクニュースは問題だ、検証するべきだという事を、自らフェイクニュースわ流している組織が言うのだから、もう下手なギャグ顔負け。

CNNが登場したとき、ニュースだけで24時間番組が持つのか、視聴率(アメリカはケーブルTVだから契約率)が取れるのか疑問視されたけれど、結果大成功をして報道の中心になったけれど、今ではフェイクニュースの代名詞みたい事も言われる始末。やはり肥大化した組織とか、柵という物が知らないうちにむしばまれていくのだろうか。例えば、天気予報専門チャンネルというのも最近では増えてきているけれど、天気の場合は必ず結論(=実際の天候)が出るから、それに対しての正解率・正確性に寄って視聴者は判断することが出来評価も出来ます。でもニュースに関しては、その判断基準が人によっても違うし、解釈によっても違う。場合によっては、誘導することすら可能なわけで、結局視聴者が対抗するには、自ら別の情報源を保有して、それと比較検討して自分で判断しないと行けない。そういう情報リテラシーをどれだけの人が十分に持っているかというと、多分殆どの人は流されてお終いでしょうね。ただ、最近では大手メディアでもフェイクニュースと言う事を取り上げだしたことで、すこしずつでも個人の考え方、捉え方が変わってきた気がします。フェイクニュースが自らのフェイクニュースに自滅する日も、そんなに遠くないことを祈りたい...

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