2017年8月7日

広島の気持ち

昨日は広島の原爆記念日。昔から「記念日」という言い方に引っかかりを感じていて、ある時調べたら、良い事でも悪いことでも、その日を忘れないために継続するために、お祝いするにしてもお悔やみするにしても、設定する日は「記念日」と呼んでいいらしいと分かって一寸ビックリした記憶も。個人的には「原爆投下記憶日」とか言う言い方の方が、まだしっくりくる気もするけれど、現地の人達がどう感じるかですからね。

で、そういう日だからこそ、この日は異例の気持ちを込めて静かに亡くなった人達を弔い思い出す日にすべきだと思うんだけど、日本中から勘違いしている集団が広島に集まり、8時15分の原爆投下の時刻で黙祷する時にも騒いでいたらしい。彼らがこの日を利用して、まぁ核兵器廃絶くらいまでの主張ならまだ分からないでもない。それだって、犠牲になった人達の弔いの場でする話しじゃ無くて、今実際に核兵器を保有している人の前で言うべき事だと思うけれど。で、それ以外の、やれ安倍政権退陣だとか何チャラ撤回とか、なんで労組とか活動家が大手を振ってこう言う場所に出てくるのか、それが理解出来ない。メディア等は「場所にそぐわない集団がデモ行進をした」とさらせばいいのに。

あと、昔から不思議だったのは「被爆二世、三世」という言い方。昔は学校でもこう言う原爆投下の話しとかその後の被害や復興の話し等も少し教えられて、さらには自分は「はだしのゲン」の最初のシリーズはリアルタイムで呼んでいた世代なので、実際に広島へ入ったことはないけれどそれなりに教育とか情報は得ていたと思うんですが、この「二世、三世」という言い方を聞いて、実は最初の頃は被爆した親から、その原爆の後遺症を引き継いでしまった子供、孫の事を言っているのだとずっと誤解していました。実は、単に親御さんが被爆した人から生まれた子供と言う意味なんですよね。勿論、精査していければ親の世代に受けた被爆の影響で、例えば染色体異常があるとか、何か後遺症が遺伝するという事も有るのかもしれないけれど、殆どと言うかほぼ全ての人は多分普通に生活して普通に人生を送って、普通に最期を看取られていったんじゃないかと。添え言う人達を、あえて「二世、三世」の様な言い方をするのって、ある意味差別なんじゃないかという気持ちに変わってきました。特に東北の震災があってから「福島」という言葉に別の意味が添加され、それがさらに「フクシマ」に変わっていった様子って、「広島」が「ヒロシマ」になり"HIROSHIMA"になっていったようなものだなと不快感に近いものを感じたりします。

「記憶を語り継ぐ」という目的のためには、そういう言い方も必要なのかもしれない。でも、一番重要なのは今生きている人達、今生活をしている人達でもあるわけで、その人達があえて選択したので無ければ、もっと自由に自然に彼らのことを考えていき、変な部外者の感情を入れない方がいいと思うんですが。そうで無いから、例えば原爆禁止の団体だって分裂するわけだし、関係無い騒ぎたい人がその目的のためだけにやって来たりするわけですし。オバマ大統領の広島訪問によって、世界の注目が集まり、平和公園とか原爆記念館は訪日した時の訪問先候補としても人気が高いそうな。個人的にも、そういう悲惨な記録や恐ろしい状況というものを身近に感じて貰うことも大切だけれど、もう一つは日本の中でも発達した戸氏の一つになっている広島の復興振りというものをもっと誇って良いんじゃ無いかと。特に、被爆後直ぐに社会は動き出していたことや、その後マツダの城下町として発展していることは、原爆を落とさないという大前提は最重要だけれど、仮に叩きのめされても負けないことの大切さを教えてくれると思うんですよね。それは阪神大震災のあともそうだし、今は福島がまさにその正念場にあるわけで、物事の陽と陰と言うものをちゃんと伝えていくことが一番大切では。そこから「事実」をみんなが自ら発見していくと思う。だからこそ、この一年で一番大切な一日は、一番厳かで静かな一日にするべきだと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿