2017年8月15日

終戦記念日とメディア

8月15日は、日本がポツダム宣言を受け入れを決めて戦争終結を発表した終戦記念日。毎年この日の前後には戦前・戦中・戦後の様子を特集する番組や記事を放送・掲載し、日本の反省と懺悔の日々が続きます。それはそれで大切なことだとは思うけれど、最近のように世界中が騒がしくなってくると、日本も反省だけとしているんじゃなくて、その体験経験を生かしてやれること出来る事をするべきじゃ無いのかという意識も生まれてきます。だからといって、アメリカのような巨大な軍事力を持って、「世界の警察その2」に成れと言うつもりは無いけれど、「話し合いで」とか「憲法九条で」という絵空事は、そろそろやめた方が良い気がする。

放送される特集番組や特集記事の多くは、日本の軍部が台頭して戦争に突入したりとか、当時の帝国主義に倣って植民地開拓に邁進したりみたいな話が殆ど。それらは、一部は正しい話しだとは思うけれど、一番重要な点はそういう状況にしていった、助長していた当事者の一つとして、NHKを初めとする当時の放送業者や、朝日新聞・毎日新聞等の大手新聞メディアも含まれていることは殆ど伝えられないし、そう言うことに対して他社には反省や謝罪を要求する半面自分達から反省や謝罪をすることは殆ど観られない。

NHKが開局して地上波放送を始めたのは戦後の1953年2月1日。だから戦前や戦中のメディアと言えば、新聞(雑誌)とラジオ。新聞だって、特別な時には多色刷りの紙面が入る事は有ったみたいですが、基本的にモノクロの紙面で写真だって不鮮明なものばかり。そんな今と比べて非常に限られた状況の中でも、これらメデイアが提供する「情報」だけが一般国民が知ることが出来る情報のほぼ全てであったわけで、そう言う意味では、どれだけ世の中社会の中に情報が充満していても、結局はその人が得られる情報内容を超えてその人の知識なり理解が深まることはないんだなと言う当たり前の事を実感。そういう彼らメディアの存在が当時は大きくだから影響力があり、それ故に日本が戦争に突入し泥沼化していった責任の大きさもそれなりに大きいはず。しかし、彼らが毎年その責任を他者に問うことの何十分の一すら彼らの口から反省なり謝罪なりを聞いた記憶がありません。本来なら、特集番組の最初には「我々メディアも反省しています」と謝罪文をちゃんと掲載して当時の責任を謝罪してから、人の批判を始めるべきじゃ無いかと思うのだけれど。

そんなことを特に強く最近感じるのは、最近も一部メディアがどうもバイアスが掛かった偏った姿勢での報道や放送が増えているように思えるからで、そう言う意味では凄く危険な状態になりつつ有るのかもしれない。最も、戦時中と異なるのは、それら既存メディアの存在とは別に、「ネット」という別の情報網が存在していて、世代によってはそちらからの情報の方が多く、従って既存メディアの情報でも無視されることや疑念を持たれることが多いこと。勿論、そのネット側を流れる情報も正しいものばかりで無くて、ノイズの多さは既存メディアよりも多いかもしれない。ただ、速報性とある種の双方向性があるネットの方が、情報の選択や分類、さらには選別して収斂させていくことが個人単位で可能なわけで、そう言う意味ではその人の努力で必要な情報にどんどんアクセス出来る事はこれまで無かったこと。これまでのメディアが受け取るだけの受け身での情報取得だったのが、ネットの世界はそういう部分も多いけれど、これまでに無く能動的な情報収集が可能なところが大きな違い。それを利用するか、それとも既存メディア同様ネットでも流されていくのか、そこの違いがこれからの社会を左右する気がする。そう言う意味で、「やる気の無さ」の代名詞みたいな言われ方をする若者世代も、実は能動的な情報リテラシーが増えていることに、少し救われる気がする。

別に戦争があり日本が敗戦したことを否定するつもりは待った無いけれど、では何故そうなったのか、その背景は何なのか、あるいは日本以外の国や地域はどうだったのか、そういう包括的なものの見方をしないと、結果だけ見ていると知らないうちに同じ道を繰り返していることに気が付かず、最後の最後に結果が出たところで「実はこれも」と分かる悲劇だけは避けたいですよね。

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