「原子力」という一つのキーワードだけで無理矢理結びつける、テレビ朝日が8月6日に放送予定という「ビキニ事件63年目の真実、フクシマの未来予想図」番組。すでにTL上ではかなりの話題になっていて、その多くが「広島の原爆投下記念日8月6日」に「ビキニ環礁での水爆実験」を内容とする番組に「フクシマとカタカナで恣意的なサブタイトル」をつける意図を批判しているもの。中には業界に近い方なのか、「タイトルの是非は別として内容を見てから批評しろ」と言われている人もいるみたいだけれど、既に告知されているなら、そのテレビ局から正式に発信されている情報も番組内容の一部なわけだし、そこに既に何か疑問や疑念があるなら、それは批評の対象になると思う。
ビキニ環礁での水爆実験とその後の話しをあえて比較するなら、広島・長崎への原爆投下とその後の影響調査を比較する方が適当だと思う。広島・長崎、どちらの町も完全に復興して、今では広島の原爆ドーム位しか直接原爆投下の影響を感じられるものは無いくらい。長崎の平和記念碑も、説明されれば長崎原爆投下の記念碑と分かるけれど、その名称や姿からは文字通り「平和を祈念したもの」という印象しか先ずは受けませんからね。一方で、使用された水爆が原爆とは規模が違うとは言え、その影響が未だに色濃く残るビキニ環礁での話しと、どう繋げるのか、そこが仮に両者を比較しても疑問が残るところ。反原発、反水爆の趣旨で共通したテーマを訴えるだろうことは想像されるけれど、状況も目的も違う項を比較しても、余り意味が無いと思う。
さらに、そこに「フクシマ」です。「福島」とは書かずに「フクシマ」とすることで、東北の福島とは異なる場所の話しという言い訳になるのだろうか。仮に番組の内容が福島に好意的なものになったとしても、先ずはそのタイトルを見てビキニ環礁の現在が、福島の未来なんだな、と想像する人が殆どである時点で間違いだと思う。リンク先に掲載されている番組キャスターの記事を読んでみても、サブタイトル以外福島の原発事故のことには触れていない。でも「除洗後三年で島に戻る」とか「後遺症に悩まされる」と言った、福島県の除洗区域や復帰した地域に対しての「なんとなくの恐怖感」を想像させるような言葉が並んでいるのが気になる。放送局というのは「自主規制」とか「放送禁止用語」みたいなものは自ら設定するくせに、「誤解回避表現」とか「妄想誘発文書」みたいなことは自主規制しないのだろうか。それだって、十分に罪深いものになるし、使い方によっては真逆の意味にも取られることを考えると、逆に禁止して使用しないこと以上に深刻な問題だと思うのだけれど。
テレビ朝日、あるいは朝日新聞と、この会社の系列は政府に批判的な態度を取ることは別に企業としての主張として許されるとは思うけれど、それが余りに偏向していると感じる位に傾いていることを「真実」と言い切ってしまうことに恐怖に近いものを感じます。言い方は悪いのかもしれないけれど、一種のカルト感というか、あのサリン事件を起こした当時の某新興宗教みたいな感じすら感じられるのが、個人的にはその報道内容以上に怖い気がする。先日書き込んだ、メディアが疑惑だけで罪人を作る3つの方法にこの番組を当てはめると、1.の消耗戦には今回の様に繰り返し話題を取り上げていけば何度でも放送出来る。2.の発言の矛盾に関しては、東電と政府、さらになかなか予定通り進まない除染作業や廃炉作業を取り上げれば、計画の遅れや発表内容の変化等、幾らでも「矛盾」として追求が可能。3.の納得のいく説明も、「もっと詳しく」とか「もっと分かりやすく」「丁寧に」と言えば、何度だって説明要求出来るわけで、それこそ聞いている側のメディアに嘘発見器でも付けて「あなたは納得しましたか」と質問でもしないと分からないこと。そう言う意味で、ビキニ、ヒロシマ、ナガサキ、チェルノブイリ、フクシマ、とカタカナ言葉を使えば、いつまでも「反原発」「政府の責任」「東電の責任」等、幾らでも話題を作る事が出来てしまう。
メディア側としては、その番組を放送してから、あるいはその記事を掲載してから、それに対して批判を受けるのであれば、それはある意味本望だと思うんですよね。人それぞれの受取方が違うから、賛成も反対も生まれるわけだから。でも、番組が放送される前に、そのタイトル、あるいは予告だけで既に問題点が指摘される、反論が生まれてくるというのは、まずは番組の顔であるタイトル自体が間違っている、又は内容から適切と思われたタイトルがおかしいのであれば内容自体から間違っている、と理解されても仕方の無いことで、それはメディアとして失敗している、あるいは敗北している証拠だと思う。この番組の担当者が、本当にビキニ環礁の問題を訴えたいのであればもっと別のタイトルの付け方があったとおもうし、それと関係して福島の原発事故の問題点を指摘したいのであれば、やはりもっと違うタイトル付けがあったと思いますよ。結局メディアとしても、事実を伝えるのではなく、自分達が正しいと思っている「真実」を伝えることが使命と思っているから、どんどん世の中と乖離して言っていることに気が付かない。あるいは、気が付かない振りをすることが「正義」だと思っている節が感じられるなぁ。でも、それって、そのうちに自分達の嘘で自分達が否定されて消えることになる負のループの始まりだと思うけれど。
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