2017年7月22日

記憶が記録に優る

今朝朝食を食べながら、いつものように点けられていた朝の番組を見るとも無しに聞いていたら、とあるコメンテーターが山本大臣が獣医師会側が公開した会議のメモの内容を否定して書かれていることは言っていないと説明していることを「記憶が記録に優るのはおかしい」と言っていてビックリ。ワープロで体裁良くまとめられて、それを印刷して「議事録」と呼んでも、それは単なる記憶を書き留めた「メモ」で有り、出席者全員が同意したもので無ければ正式な議事録では無く記録でも無い。単なる「記憶」を紙に印刷したもので、そういう意味では山本大臣の発言と同じレベルのこと。仮に、獣医師会のメモが正しいというのであれば、山本大臣側も同様の体裁で当時の内容をまとめて印刷した「議事録」を出したら、この人はどう言うのだろうか。

この話がややこしいのは、今回の「議事録」を公開しているのは獣医師会の政治団体である「獣医師連盟」の北村委員長。で、その話しを山本大臣だけで無くその席に同席した日本中医師会の蔵内会長も否定している。少なくとも、別の立場の人間二人が「違う」と言っているのに、一人の言い分だけを、その言い分が「印刷されている」から優勢というのは濃いに事実を曲げているとしか感じられない。さらに言えば、「獣医師連盟」は獣医師会の要求・要望を通すための政治団体だから、獣医会として獣医学部新設に反対することを主張するのは当然で、だから岩盤規制突破を目的とする山本大臣とは違うニュアンスになる事も想像出来ます。そうなれば、今治を突破口に京都も、と考える山本大臣に対して、今治すら許せないのに京都なんて論外、と考える獣医師連盟の「理解・記録・記憶」がずれるのは当然でしょう。だからこそ、議事録として正式に残すのであれば、その「ずれ」を埋める「検証(Review)」をして、双方納得出来るないよう・言い回しにして了承して最終的に決定するわけです。

予言者でも無ければ、記憶よりも先に記録することは出来ない訳です。人が何かに「記録」するというのは、自分達が何かを経験して記憶したものを書き写しているわけで、そこには当然どんなに配慮しても主観が反映されるし記憶違いもあるでしょう。場合によっては、色々な目的のために意図的に書き換えることだって有るだろうし。となると、「記憶が記録に優る」というのはある意味真実でもある。ただ、その「記録」が、一人のものなら色々なノイズやバイアスが掛かって曲げられる可能性も高いけれど、同じ記憶を持つ人間複数が集まり、それぞれの記憶を突き合わせて統一した記録を残せば、それは遥かに信頼性の高い「記録」で有り、普通はそういうものを「議事録」というもの。仮に、今回の「議事録」が作成されて、当日の参加者に回覧(メール送付)して、それで反論が無かったのであれば、それは「議事録」と言ってもいいけれど、それならそのメール迄ちゃんと示さないと裏付け出来ない。

「記憶が記録に優るのはおかしい」と言ってのけたメディア側の人物は、結局はメディアの中にいるからこそ、自分達に都合の良いもの利用するだけなんですよね。これが別の案件、例えば前川前文科省事務次官の援交疑惑のケースなどは、ちゃんと本人の行動記録も、何度も注意されたことも記録に残っているのに、本人が「貧困状況の調査」と言っていることを「正しい」と言っている。その調査の調査結果も残っていないし、それが一度や二度の話しでもないのに、この時は「記録が記憶に優るのはおかしい」とメディアは言っているわけです。まぁ、そんなことは毎度のことで都合の良いことしか伝えない、報道しないメディアは昔から有ったけれど、最近それが頓に偏向してきているように感じるのは気のせいだろうか。なんとなく、民主党に政権が移動する少し前くらいから、何かメディアが特定の意図を持って報道をするようになったように感じるんですよね。で、民主党が敗退しても、それが続いているような。そっちの方がよほど気味が悪い。

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