2017年6月19日

パフォーマンス議員

まぁ、弱小政党としては、通常の委員会とか議会ではなかなか目立たないから、こう言う事でもしてビジビリティ(Visibility)を上げることしか生存できないんだろうと思うけれど、これは余りに酷い。しかも「ガサ入れ」とか言っているけれど、いつから国会議員が警察権を持つようになったんだろうか。と言うか、自分達の気分で何でも出来る社会って言うのは、彼らが現政権に対して言っている「独裁政治」の世界じゃ無いのか? 自分達が反対していることを自らやるって言う自家中毒というのか本末転倒というのか身勝手というか、まぁ結局は何も考えていないという事ですよね。

彼らの場合は、先のテロ等準備罪の議会投票でも、牛歩戦術で時間を延ばして、彼らはぎりぎり投票できたけれど、そのパフォーマンスに巻き込まれた社民党の議員達は無効票に。いい迷惑だよなぁ(笑)。さらには、壇上でいつものパフォーマンスをするとか、それってタレント議員だからって許されるわけじゃ無いし。色々な経歴の人が国民の代表として議員になることは良いと思うけれど、だからといって百人が百人素晴らしい議員になるわけでも無い。どう考えても、何でこんな人が議員に、と疑問符が何百も出てくるような人間も数多く誕生している。それが民主主義のコストと言ってしまえばそれまでなんだけど、最近はその劣化具合がとみに酷い気がする。

森友学園の時には、国会開催中にもかかわらず大阪まで行ってパフォーマンスを繰り広げたのに、今回は終わってからこう言う事をするのは、彼らも本当はやる気が無くて「やってます」という事だけ見せたいのだろうか。議員には調査権があるから、それを利用して色々な情報を集めて疑問や不正を解決することは良いと思うけれど、それを利用して自分達の宣伝行為にしか見えないこう言う事をやるのは止めて欲しい。というか、禁止すべきとすら感じる。

自分達も仕事で成績を評価されて、それで翌年の昇給率が決まったりボーナスの歩合がアップされたりするわけで、その為にはやはり見た目とか発信力みたいなものも必要。真面目に与えられた仕事だけこなしていても、回りがそれ以上の仕事で結果を出せば相対的に低い評価になるわけで、そういう意味では挑戦して新しい事をする事も必要だし、それは成功させないといけないし、その結果なり努力はちゃんと「見える化」しないと評価対象にすらならない。同じ事を、国会議員にも会って、そういう意味では国会の議会だけで無く、テレビ番組に出たり後援会みたいな場所を準備して訴えるのも一つの方法だと思うけれど、それもそういうパフォーマンスだけで終わるのはもう国民も見限っていると思う。国会議員に対する評価というのは、結局は選挙での当落でしか無いのだけれど、最近のパフォーマンス重視の議員を見ていると、逸れ以外の何か評価システムが必要じゃ無いかなと言う切実な思いを感じます。

杏奈人達でもそれなりの数の得票を得て当選しているわけだから、それなりに後援してくれる組織があるんだろうけど、そういう人達はああいう光景を見て「よし、良くやっている」と感じるんだろうか。もしそうだとしたら、そういう人達の感覚も怖いなぁ...

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