2017年6月7日

メディアの構成員

レッドブルエアレースに登場した零戦についての、とあるTLのまとめ。まぁ「戦争」とか「武器」とか「平和」というキーワードに、何か変なベクトルで反応する人が、特に某メディアの幾つかに多いのはああいう理由なのかなと思い当たる節はあるけれど(をぃ)、でもね、自分が所属している組織が講演しているイベントに対して何か反論するのであれば、先ずはその組織に対して言うべきであって、「これは個人の発言だから」という事でその組織所属をうたいながら発言するのは矛盾していると思う。組織体に所属しているという事は、就業時間帯と逸れ以外の個人の時間帯はあるけれど、社会責任とか倫理的責任みたいなものは、その時間帯に関わらず所属組織も含めて世間は評価し批判するものだから。

私は浜松に今済んでいるわけで、ほぼ毎日航空自衛隊のE767が自宅のほぼ真上を離陸したり、次期によっては一日T-4練習機が訓練飛行している様子が見られるような環境で過ごしています。高校までの同級生には親が自衛隊員と言う知り合いも多いし、大体太平洋戦争の末期には艦砲射撃で浜松市の繁華街は一面焼け野原になったわけで、その写真などは小学生の頃には地元の歴史みたいな教育で何度も見せられたもの。勿論、既に句なっている祖父は戦地に従軍経験があり、そんなに多くは無いけれどその時の話も子供の頃は聞かされましたし、父親の兄は戦死しているし。だから、実際に戦争体験は無い世代ではあるけれど、戦争の悲惨さは理解しているし戦争の肯定もしない。ただ、どうしても何か有った場合には、そういう手段に出る時もあると言う事は理解しています。でも、戦争というのは零戦とか軍艦が自分で引き起こすものじゃ無くて、人が始めるもの仕掛けるもの。そこを間違ってはいけないと思う。

例えば、自動車なんて普通に使われる「物」ではあるけれど、もし身内に交通事故に遭遇した人が会ったり自分が実際に事故に遭遇したとしたら、同じ自動車でも感じ方が変わるんじゃ無いだろうか。飛行機も、今回飛んだような場合は単なるでも飛行では有るけど、あそこに本物の武器を実装したら、それは勿論意味合いは違ってくる。飛行機、戦艦、戦車、あるいは機関銃にしても拳銃にしても、殺傷能力のある物「武器」に引かれることが多いのは、それが今日局の目的のためにとことん機能美を追求したデザインになっているからだと個人的には思っています。無駄の無さであったり、例えばより早く飛ぶとか、より軽快に移動するとか、特別な機能遂行のために最高の性能が出るようにデザインされて実際に造られている。そういう部分に人は引かれることが多いのでは。勿論、その目的は相手の施設を破壊したり、場合寄っては殺傷することもあるわけで、反対する人達はその事を批判するわけですが、でもそれだけが目的では無いし、ざっさいにそういう行為を行うのは武器では無くそれを使う「人」なんですからね。日本刀自体は、今では芸術品や鍛造品として評価されて収集する人も居るけれど、それを武器だからと言う人はほとんどいないのは、今では武器としての使用目的が無くなり美術品として評価されているから。最も、確か今美術品として流通している日本の刀剣類は、実際戦乱が平定されて武器としての刀の利用が減少して、文字通り美術品として作られた物が多いとも聞きますから、そういう意味では本来の目的通りなんだろうけど。

今回の事を考えると、短絡的に「零戦=武器」と考えて、戦争反対と言うのは一寸間違っていると思う。確かに零戦は武器として使用された歴史はあるし、逸れ日米どちらにも久何結果を多く残している事は事実。だからこそ、今回その復元された戦闘機が現代の空を飛ぶことの意味と意義を考えるべきでは。当時を知らない人達が、その零戦の機能美と優美な飛行の様子に感動するのに、何故当時は最強の戦闘機として使用されたのか。そういう背景や歴史に加えて、現在の賜与問題を考える切っ掛けにするならまだ分かります。ただ、復刻して怪しからんだけでは、それって単なる自己中心的な暴論のような気がする。ましてや、大メディアの中で仕事をする人間である以上は、最意味のあること言うべきでは。TLにも書かれているけれど、「情報」だって立派な武器で有り、それを利用して戦争に荷担した経緯があるのは、今の大手メディアなんだから。今の私達は当時の先達とは違う、と言うのであれば、今回飛行した零戦も当時の零戦とは違うはずなのでは。

0 件のコメント:

コメントを投稿