2017年5月7日

調べるという事

アメリカでは、警察官がダンキンドーナツに行くとコーヒーとドーナツが無料になるという話がTLに出ていましたが、その真偽を検証したブログ記事。その内容以上に、疑問点に関して丁寧にそのソースを調べて事実を積み上げて書かれた文章が素晴らしい。ネットの書込は「便所の落書き」とよく言われて、事実しょうも無いものも多いけれど、中にはこのブログ主の方を初めとして、凄く緻密な調査をして記事を書かれている方や、理路整然とした内容を書かれている方など、多分多くの方は所謂プロのジャーナリストや研究者では無い場合が多いと思うのですが、プロは出しというか、逆にセミアマチュアだからこそ変な思い込みや誤解に基づかない事実が公開されていると思います。

例えば数値データに強い方だと、色々な公共機関から出された数値組み合わせたり、レベルを調整して比較できるようにしたり、あるいは他年度の推移を比較したりして、既存メディアが往々にして陥りがちな「都合のよう値」を排除することで、本来の意図を明確にしています。同じように、議事録とか広報などの公開情報を丹念に追うことで、議論の推移や意図的な目的の変更した時期などが洗い出されることも有り、最近の豊洲市場移転問題では、そう言う手法で現都知事問題点を指摘していることもありました。それによって、既存の大手メディアの論調がいかに非論理的で有り、情緒的な面を強調するような先導的な内容であるかがよく分かったりします。

自分も一応理系の人間だし、どちらかというと論理的に文章なりアイデアは組み立てるようにしているつもりですが、どうしても人間なので感情とか私情みたいな物が入りがち。ただ、自分自身本が好きで子供の頃から色々な文章に触れていたことと、社会時になって最初の仕事でマニュアル作成の仕事をしたこともあって、所謂小説のような文章では無く、どちらかというと報告書というか完結正確に内容をまとめる作業を散々やらされたので、その時の経験が今でも生きている気がします。

こう言う事は、昔だと「読解力」と言われていたものだと思うのだけれど、最近では「ネットワークリテラシー」にも通じるもの。そういう「読む力」が付いていないと「書く力」も身につかないし伸びないと思うんですよね。だから、何か文章を書く場合には、各文章の何十倍もの書籍・文章を読み込まないと、読んで貰えるような文章にはなかなかならないと思います。自分がそこまで出来ているとはとても思わないけれど、ただそう言う気持ちと言うか認識で臨むことは重要なわけで、せめてそう言う気持ちは常に忘れずにいたいもの。一方で、単に言葉を投げつけるだけの人も、右も左も多いわけで、そう言う人達が何かの切っ掛けで一寸考える機会って作れないものだろうか。本当、そんなことが可能になれば、もっと有意義な方向に伸びていくのに。

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