2017年1月1日

レガシーメディアの2017年

昨年末に稲田防衛大臣が靖国神社を参拝して話題(問題?)になりましたが、一部の新聞社や放送局などではこの件を取り上げて、「海外から非難する意見が」とか「アジア各国が疑問視している」みたいな報道をしていました。彼女の行動の是非は取りあえず横に置いておいて、個人的にそれは無いだろうと思うのが、その意見や発言の大元を示さずに「海外から」とか「アジア各国が」という伝え方をすること。実際、問題だという意見を述べているのは、中国と韓国岳なわけで、それ以外の国の政府広報などから正式に遺憾だとか問題視しているという発言は見たことが無い。「中国と韓国が反対している」とか「今のところ中国と韓国だけが遺憾を示している」というのが、正しい情報だと思うんですけどね。それを「海外」とか「アジア」と膨らませて伝えるのは、メディアとしての正しい姿勢なのだろうか。それって、単に記事を書いた記者の思い込みかもしれないし、事実と異なる報道で有った場合、それってメディアとして失格なのでは。

同様の話は、これまでも何度も有り、特に日本対アジアという対立構造を示したがる傾向が有るんですが、実は日本対中国・韓国という構図を会えて膨らませているだけのような気がします。別に、全て日本が正しいと言うつもりは無いし、勿論聞こえない声という者もあることは分かるけれど、でも一つ二つの事象を持ってそれが多数意見であるかのように取り上げるのは、報道機関として、あるいは第四の権力として正しい姿だろうか。日頃政府が発表する、統計資料とか公式見解に関しては、それこそ重箱の隅を突くような細かなところまで指摘しているくせにです。

さらにやっかいなのは、それらの国内レガシーメディアの報道を根拠に、海外メディアが発信した記事を理由に、もう一度国内メディアが「外国のメディアもこう言っている」というような情報ロンダリングをすること。情報ロンダリングというよりも、情報の完全養殖というか、無いところにたてた煙が、一回りして本物の火事になって戻ってきたみたいな違和感を凄く感じます。さらに言えば、そういうときコメントする所謂「識者」とか「関係者」っていうのが、毎回決まった人ばかりだったりするのも、レガシーメディアに対しての信用というか信頼感がどんどん下がる理由でもあります。

何度も書いているけれど、メディアと言えども私企業なわけだから、何らかの主義主張や方向性を持つことは構わないと思います。だから、彼らが提供している「記事」にそう言うバイアスが掛かることも有りだと思うんですが、問題なのはそのバイアスの掛け具合が事実とは異なる事、捏造や虚報に近いレベルになる事ですよね。それって、記事じゃなくて小説になってしまうわけですから。小説なら小説として発表するならまだしも、それを「事実報道」として後悔するところに、個人的には怒りを感じることもあるし、疑いしか残らない現実が続いていくことで、ますます不信感が高まるばかり。そう言う状況は、2017年になればますます加速するように思います。その時に、レガシーメディアはどう対応するのか。独自の主張をすることは、全く問題無いし多様性を考えればどんどんやるべきだと思うけれど、そこにちゃんと説明として納得できる内容が無い場合は、それはメディアとしての仕事では無く、単なる出版社としての立場に、今は「メディア」と呼ばれる会社は変わっていくしか無くなるんでしょうね。

「レガシー」として、全てが生き残ることは無くて、それなりに価値が無ければ後世に残ること無く消えていくのが「レガシー」と呼ばれるもの。既に「レガシーメディア」と呼ばれている、新聞社とか放送局等はどちらの「レガシー」になるのか。今年はますますその傾向が加速していくんじゃないだろうか。それはそれで、必然的な淘汰であるから望ましいのだけれど、それに長長と付き合わされるこちらは一寸嵌まったものでは無いけれど。それも進化を進める上での試練なのかもしれない。

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