2016年12月15日

虐めの原因

最近東京や川崎で明らかになった、福島からの自主避難家族の子供対しての同級生からの強請たかり事件。各種メディアもこぞって報道しているけれど、既にあちこちで指摘されて居るけれど、そう言う風評被害を煽ったメディアが、今度はそれによって発生したと思われる差別・虐めを批判するって、マッチポンプじゃないのか? 仮に彼らが報道した福島の危険性、放射能の危険性が正しい物であったとしても、それによって読者や周りの人間が福島に対して偏見を持ったとしたら、それは伝える側の稚拙さ、表現能力の低さによる二次災害なわけで、それって被害を受けた側から見たら損害賠償を請求したいくらいの気持ちにならないだろうか。

もう一つ気になるのは、小学生とか中学生くらいの子供が、そう言う新聞などの報道を見て読んで理解して、今回の様な行為を行うことは余り無いのでは。結果的に、それらいじめる側の家庭の環境・状況から、子供が感化されてそう言う意識を持つようになり、今回の事件が生まれたような気がします。特に、よく分からない放射能に対しての誤解や無知からの行動は、まだ理解出来るけれど、「保証金があるから奢れ」というのは全く福島の被害とは関係無い話。そう言う経済的な話は、やはり親なりが口に出して言わない限り子供が自分で知るような話では無いわけで、結果的に子供の問題と言うよりも家庭の問題に帰着する気がする。

今の時代、この事件に限らず、メディアの報道、提供した情報が一人歩きしたり、初期の不確かな内容がその事件直後という影響度の大きさもあり刷り込まれたまま正しいと誤解されていったりと、メデイアの役割が多きいくなってきていると思います。何度も書いているように、正しい情報を速やかに伝えるのがメディアの役割だと思うけれど、100%正しい情報を提供出来ないことは多々あるわけで、その時にはやはり迅速に修正・訂正し、さらに誤解を解く努力をしないといけない。ただ、メディア側にとって「誤報・虚報」と言われることは致命傷なわけで、決してそれは認めない。認めるのは、情報に不正確なところがあったとか、精査してみたら、みたいな事を良いわけにしているだけ。同様の事が他の業種で発生すれば、それこそ地獄の底まで追求するような事をやるのに、です。

虐めの原因を作ったメディアが、その虐め事件を報道し、さらにその虐め行為を批判するというのは、「情報の完全養殖」をしているみたいなもの。これを突き詰めれば、何も無い事象・事件を作ってしまえば、そこから何かの「記事」まで作る事が出来るという話なわけで、そう言う重要性や責任をもっとメディアは自覚するべきです。「第四の権力」とか「権力の監視者」などと言うのは自由だけれど、それはそれだけ重い責任と義務を負っている事をもっと自覚しないと。もっとも、他の権力同様、いっても聞かないのが「権力者」ですけれどね。

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