2016年11月22日

書く方もダメだが掲載する方もダメ

東京新聞に掲載された、山口二郎法政大学政治学教授のコラムについて、その余りの酷さに山口氏に批判が集中しているらしいけれど、あんな内容の記事(コラム)を掲載した東京新聞の罪もそれと同じくらい、いゃそれいじょうに酷いと思うけどなぁ。

内容に関しては論外。ネットでは「子供の作文より酷い」と言われているけれど、それは子供に失礼と言っても良いくらい。大体、殿時点でこのコラムの原稿を用意したのか分からないけれど、多分総理がトランプ氏との会談決定を発表した直後ぐらいに、頭に血が上った状態で書いて東京新聞に出稿したんじゃ無いだろうか。その後会談前後に漏れ伝えられてきた内容と異なることを前提に書いている台詞も有り、いい加減な内容に華を添えて(?)いる。

この人、一年程前はSEALDsの後見人として、国会前でもかなり過激なアジテーションをしていたけれど、ああいう行動や今回の様な執筆の、どこが「政治学」なのか凄く疑問。この人に限らず、どんなに凄い知識や経験を持っている人であっても、それを誰かに伝える時の手段「言葉」や「声」が駄目だと、結果的にその持っているものも「駄目」という評価しか与えられないんですよね。結局アジテーションで集団心理を盛り上げて、その衝動の赴くままに行動するようになるから、それが一番怖い。考えも何も無く、感情だけで行動するから、何をするか分からない怖さしか無いんですよね。で、それって今のアメリカの大統領選挙後の状況にも似ているわけで、所謂「リベラル」と言われていた人達が、自分達の意見が通らなかったからと実力行使にでている。あるいは、散々そう言う人達を煽ってきたメディアが、一部は反省している態度を示しているけれど、しかし未だに「自分目線」で相手を批判することしかやらない。

そう言う意味で、こういう文章を書いて公開する人も人だけれど、それを掲載してしまう東京新聞も、いかに日頃の主張がリベラルというか極端な差は思想の紙面を作っているとは言え、もうメディアという役割を果たしていないんじゃ無いだろうか。「いゃ、これでもかなり修正したんですよ」と良い割れされたら笑っちゃうけれど。新聞にある「読者の投稿欄」にも、時々とんでもない内容が掲載されるけれど、今回はそれ以下ですよね。それが、仮にも東京の一流私立大学と考えられている法政大学の教授なんですから。

例えば、戯曲であるとか、日本だったら歌舞伎とか、あるいは落語の世界等、実際に直には言えないこと等を、別の事象になぞらえて伝えたり、あるいは擬人化したりするなどして、別の形態の話として伝えることで、逆にその内容を強調したり、あるいは新たな面白みを加えたり、あるいは暗に批判したりという手法をとることで、より相手に強く印象付けることを何十年、何百年と続けてきたわけです。ある意味、新聞とか雑誌に相当するものが無かった時代におけるライブメディア的な仕事をしてきたとも言えるんじゃ無いかと。そう言う意味で、捻りも何も無い氏かも中身も無いこういう記事をなんの疑問も無く掲載してしまうこういうメディアって、メディアとしての役目すら放棄している、あるいは失っている証拠なんだろうなと感じますね。山口氏の意見などはもうごく一部のシンパ以外は誰も相手にしないだろうけど、この東京新聞も同じ道を進むんだろうなぁ。親会社は中日新聞だけれど、ここだけで無くこういう極端なメディアはネット時代の発達と共に淘汰されていくじゃ無いだろうか。一つの紙面でプラス・マイナス、右・左の比較が出来る事で読者は自分で判断出来るけれど、紙面上では一方の話しかせず、結果的に別の方法(=ネット)で情報がそれ以上に入ってくる時代になると、多分読者の意識はそちらに移ると思う。そう言う危機感を感じていないとしたら、それはそれでこのメディアが淘汰されるということで、それはもしかしたら読者にとっては正しい方向性なのかもしれない。

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