2016年7月28日

溺れるメディア

相模原で発生した大量殺人事件。その事件の報道に関して、朝日新聞のヨーロッパ特派員がこんなTweetをして物議を醸し出している。今回の事件が、何か双方の利害が衝突して以前から揉めていたような事案であれば、まぁこの意見も納得できます。例えば、近所にゴミ屋敷があり周辺住民と揉めているとか、昔あった騒音おばさんみたいな話し。あるいは、経済的な理由で企業同士が対立しているとか、結果的に加害者と被害者という立場になったけれど、双方に何らかの理由なり原因が存在しているような事件なら、彼女の言い分もまぁ分かる。でも、今回の事件はそんな構図では無いことは明らかなわけで、仮に犠牲者の人達の背景とか分かったとしても、それは個人のプライバシーを広げるだけで、犯人の考えとか原因解明に繋がるとは思えない。というか、それが必要ならば、先ずは警察なり司法なりがする話しなわけで、メディアが取材して動向という話しではないでしょう。言い方は悪いけれど、その部分を掘り下げることで、今回の殺人事件以外に、例えば障害者保護とか、障害者に対しての社会保障とか、それを支える家族の苦労とか、言ってみれば記事になるネタがあるから言っているだけでしょうね。

殺人事件の全てがそうだとは言わないけれど、でも多くの場合被害者側というのは特段の理由も無く命を奪われるわけで、だからこそ「被害者」と言われるわけです。でも、それが一旦メディアに載せられてしまうと、加害者以上に被害者に関しての報道が拡大していき、それこそ生い立ちから近所づきあい、さらにはプライバシーまで公開されて、それがさらに尾ひれを付けて広がっていく自体になります。所謂「セカンドレイプ」状態になってしまい、加害者の情報よりも多くの被害者情報が氾濫することになる事もしばしば。ゴシップやプライバシー暴露が売り物である週刊誌や夕刊紙だけでなく、本来はちゃんと理性的な記事を掲載すべき大手メディアまでこうですからね。まぁ、最も朝日新聞だから、で終わってしまいそうな気もするけれど。

で、反響の大きさに、この方こういうフォローをしているのだけれど、メディアが報道すればどうしても情報伝搬中にノイズが入り、それによって本人が意図しない反応も生まれるわけで、大なり小なり報道被害は発生するわけです。「被害」という言葉が嫌なら「報道波及」とか「報道衝撃」とでも言えば良いのか、池に意思を投げ入れれば、かならば波紋が広がっていくのと同じで、情報は変質しながら伝搬していく物。メディア、ジャーナリストとしては、それが最小限なるように報道すべきだけれど、どんなことをしても100%誤解無く伝搬することは不可能。時々それは受け手側のリテラシーの問題と言い訳することを聞くけれど、情報を出す方がそれを予め想定して情報の内容なり出し方なりを考えるべきでは。

ところでこの特派員さん、いろいろTweetしているけれど、ヨーロッパ特派員なのに現地のメディアの記事引用が少ない気がする。多くが自社の日本語サイトの引用だったり、ヨーロッパでの事件に関しても日本での記事の引用が多い気がする。日本の記事の引用なんて、日本にいる人間にだって出来るわけで、現地の情報や様子を知らせることが、彼女の今いる立場としては一番付加価値がある異では。今回の事件でも、多分ヨーロッパのテロ事件と絡めた報道や、治安の良い日本での事件で注目も集まっていると推測されるわけで、そう言う現地の反応を伝えた上で、じゃぁ被害者家族のどう言う情報があれば、さらに深い内容の記事になるのか説明すれば、少なくとも反応はもっと違った物になるのでは。それでも、個人名とか家族の特定まで必要になることは無いと思うけれど。あの都知事候補のジャーナリスト氏同様、メディアがメディアに溺れている気がする。

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