2015年2月8日

自由の境界線

ISILの日本人殺害事件に伴い、渡航禁止地域への渡航計画のあるフリーカメラマンが旅券の返納を命じられたという記事。幾ら本人が注意すると言っても、問題のある地域に近づけばリスクも増えるわけで、それに対して国民の安全を確保するのは政府の責任。方や、報道や移動の自由は人間として、あるいは職業人としての権利でもあります。どちらも守られなければいけないけれど、必ず下両立できるものでも無いのは、先日の事件や其れ以前の同様の事件を見れば明らか。

今回の場合、フリーカメラマンの杉本氏はシリアには行くけれどISILとは接触するつもりはないと言い切っているけれど、それでも出国を止める外務省はどんな情報を持っているのだろうか。フリーカメラマンである以上、仕事を強制的に止められるわけだから、経済的損失も含めて影響は大きいと思う半面、仮に先日の人質事件のようなケースになった場合今度は日本として払う損失も大きいわけで、金額での比較は出来ないけれど、どちらもリスクは大きいのも事実。その場合に、どちらの自由を制限・犠牲にしてもう一方の自由を担保するのか難しいところですよね。

ふと思ったのは「安楽死」との関係。人の命は失ったら絶対に取り戻せない一番重要なものだけれど、病気や年齢によって、あるいは生活苦等でもうこれ以上生きていけないと強く感じた時に、自らの命を絶つ事を最近では(限定的ではあるけれど)認められてきました。それと比較するのは不適切かもしれないけれど、例えば自分として最大限の安全対策はするけれど万が一の時には第三者の支援を要求しないから、自らの使命を遂行する自由を優先させて欲しい、というのも似た考えかもしれません。

今回言われている「報道の自由」に対して、個人的にいつも不愉快に感じるのが、報道の自由と言いつつも個人の人格人権とか個人情報が必要以上に犯されていると感じることが多々あります。それ以外にも、様々な「自由」「権利」というのは、全て排他的に存在できるものでは無い以上、どうしてもどこかの部分では競合が発生するわけで、その境界線・ボーダーをどの様に調整していくかが、中々解けない課題だと再認識した事件でした。

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