2015年2月24日

民のかまど

一宮市の私立中学校の校長が、仁徳天皇の「民のかまど」の逸話(神話?)を題材に民主主義に関しての発言(ブログ)を掲載したところ、市教委からの注意が有りその記事を削除したという。ところが、その続報によると、どうも実際の市教委と校長先生とのやり取りと、報道された中日新聞の内容とは隔たりがあるようで、その報道側の内容が「正しいもの」として伝搬している様子。中日新聞と言えば、朝日新聞、毎日新聞系の内容で、天皇制にも批判的な傾向があるメディア。それ故に、やや天皇制に関して好意的な内容の校長ブログの記事が気に触ったのかな、と思ってしまう。

本来の記事は既に削除されているけれど、その全文などはあちこちに転載されているので今でも内容を確認することが出来ますが、95%位は読みやすく内容も平易で良い記事だと思います。唯一気になる5%は、天皇制へのやや賛辞が感じられるのかな、と言う事。「象徴としての天皇制」を強調するのは良いけれど、天皇制の賛否に関しては、それは読み手である生徒の判断に任せる方向だったら100%だと思うけれど。いずれにしても、「神話」と断っての民主主義の精神の話だと、特に問題有るとは思えない。クレームに関しても、匿名の通報1件だけだったようで、それが実名で堂々と主張した反論ならまだしも、匿名で言ってくる奴にはろくな物は無いと言うのが私の実感。その時点では、そう言う違憲もあるという補足で十分だったかもしれないけれど、地元メディアがやや方向性を曲げて報道してしまったので、影響の大きさを考えてあえて全て削除してしまったんでしょうね。

個人的には、削除したから一度出したものが無かったものになるとは思わないけれど(実際あちこちに転載されて、今でも内容は確認できるわけだし、削除後も色々な意見は出てくるわけだし)、そう言うものの履歴も残しつつ色々な意見や議論が生まれることが一番重要何じゃ無いだろうか。削除するって、そう言うことを全て封鎖してしまう気がします。勿論、全ての意見や議論が良いとは言わないし、どうしても抵抗のある内容が出てくることもあるでしょう。でも、それも一つの情報であり、そう言うものが存在すると言う事を認識して考えないと、良い事ばかりの「無菌状態」の情報だけにならされた、「聞くだけの人間」になってしまわないだろうか。

あることが存在した・存在することを認めた上で、その是非に関して意見を交換して一つの結論(方向性)をまとめることと、そう言うものが無い・言ってはいけない、と制限した上で、一つの結論を決める事って、その結論がたまたま同じものになったとしても、理解の程度や内容に大きな差があると思います。勿論、後者の方が薄つぺらくて脆いだろうなぁ。それで、さらに大きくて重要な考え方を生む基盤になるんだろうか。凄く脆弱な結論しか出てこない気がする。

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