2014年9月24日

デジタルタトゥーとメディアタトゥー

先日JR大阪駅周辺でばらまかれた写真がネットで一斉に拡散した事件を取り扱った産経新聞の記事。一度拡散したものは、次々に複製転載されて取り消すことが出来ないので「デジタルタトゥー」というと説明しているけれど、それを言ったらメディアの誤報だとかも同様の話ですよね。産経新聞では無く朝日新聞の仕業だけど、いわゆる慰安婦問題に関しては、幾ら朝日新聞が誤報でしたと取り消したところで、既に拡散してしまった情報が消えるわけでも無いし、そこから派生した記録が修正されるわけでも無い。同様の話は、今のようにネットワークが発達する以前から会ったわけで、その当時はまだメディアに対しての信頼度も高かったし、メディア側もプライドは会っただろうし、読者数も限定されていただろうから、新聞紙上で訂正記事を出せばある程度は解決出来たのかもしれないけれど、今回の様に一度火がつき、それが30年間以上も放置されていたような場合、もうデジタルタトゥーというよりも、片手を失ったとか、体を半身不随にされたとか、もっと酷い状態にされて「さぁ、俺の体を戻せ」と言ってもどうにもならないようなこと。

「デジタルタトゥー」というと、つい最近の出来事のように錯覚してしまうけれど、昔か人づてであったり、あるいはちょっとした会話の端々が伝わって誤解されたりすることは幾らでもあること。言葉にしても文字にしてもデジタルコードにしても、「情報」は生まれたその瞬間から様々なノイズの影響を受けて変質して伝搬して複製されていくもの。その中でも、一度人の頭の中に記憶されてしまうと、なかなかそれを消すことは出来ないし、だからこそ間違ったことであっても自分の考えが正しいと思う人が出てきてしまう。「誤解を解く」という行動が、自分に対しての批判だとか懲罰だとかあるいは敵対行為と感じてしまうことすらあるわけですよね。

嘘も100回繰り返せば真実になってしまうけれど、逆に一度真実になってしまうと、今度は1000回10000回訂正しても直らない。情報リテラシーの一つだと思うけれど、自分が正しいと思ったことでも、先ず一度疑ってみて検証してみる行動は必要だと思う。時間の流れによって自分の立場や利益が変わり、それによって考え方も変わることもあるだろうし、当然新しい技術とか方法の登場によって、以前自分が持っていた意見の問題点が解決される、あるいは逆に新たな問題が出て考えが変わることもあるだろうし。

自動車メーカーが発売後もリコールをしたり、定期的に点検義務づけられているように、メディア企業に対しても情報修正義務とか定期的なレビュー機能みたいなものが必要なんじゃ無いかと最近特に感じます。知らないうちに、メディアによって背中に何か落書きされて、それを知らずに周りから我々ながら生活する野は我慢できないわけですから。

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