2014年7月4日

情報リテラシーというもの

Business Media誠の連載記事から、窪田順生氏による、メディアによる憲法九条アレルギーについての記事。最初から興味深い話が続きますが、3ページ目に以前から自分が気になっていた事柄にタイしての情報が記載されていました。以前から、神のご神託、万物絶対真理みたいな扱いで「憲法九条は平和の礎」みたいな事が言われます。確かに、そこに書かれている理念は素晴らしいと思うけれど、それと共に「日本だけの話なの」という疑問がありました。何処の国だって、大小の違いはあっても、憲法の中で「侵略するぞ」とは書かないだろうし「平和を望む」という事くらいは何処でもかくだろうし。ただ、日本のように紛争解決手段としての交戦権の放棄まで記載しているのは、確か南太平洋かどこかの島嶼国家で書いているだけと以前聞いたことがあります。窪田氏の記事に寄れば、イタリアとアゼルバイジャンの憲法には「国際紛争解決手段としての戦争放棄」と書かれているそうで、内容的には日本とほぼ同じですよね。でも、どちらの国も日本のように厳しく自国の軍隊(自衛隊-?)を海外に出兵することを律しているかと言えば、やはり記事にも書かれているように決してそんなことはありません。

憲法が、例えばプログラミングの条件文のように全ての事象を網羅しているわけでは無く(それでも、どんなに完璧と思ったプログラムにも例外処理は発生するわけで)、いわゆる「道筋」なり「方針」が記載されているわけで、それにどれだけ沿うか、あるいはどれだけ例外を認めるかというのは、その時その時の状況で判断するしかありません。今回の集団的自衛権の閣議決定にしても、これまでの方針から少し角度を変えた議論をしましょうという、入り口の向きを決めただけなのに、幾つかのマスコミでは「戦争が始まる」みたいな論調を一斉に開始していて、マスメディアとして恥ずかしくないのかと小一時間。例えば、前述したような日本と同じような憲法下にあるような国とか、あるいは平和項目のある160近い国々で、その憲法解釈を変更したために、好戦的な国になったようなケースって、どれだけあるんだろうか。まぁ160カ国もあれば、中には独裁的な国もあるだろうし、もしかしたら隣のあの国とかあの国にもそう言う項目があるのかも。

メディアもそうだけれど、「平和」とか「反戦」とか「友好」とかいう事を、ことさら声高に主張する人に鍵って、その行っていることが胡散臭くて信用できないのは何故だろうか。記事にも登場する、TBSのあの朝の番組でも、テレビ朝日の夜のあの番組でも、最初にMCの顔が画面に映るだけで「あぁ、こういうことを言いたいんだな」というのが直ぐに分かり、その後の内容を見なくてもよい位(笑)。勿論、全ての人が同じ考えや首長を持つ必要無いし、そんなことは現実の世界で絶対に有り得ない事だから、それぞれが独自の考えを主張するのは問題有りません。でも、例えば情報収集の欠如から間違った認識で話をするとか、誤情報を信用して自分の主張を組み立てるというのは、結果的に結論は間違いかもしれないけれど、手続きとしては正しいんですよね。ただ、間違いに気がついたら、訂正情報を受け取らないといけないし、そこから導き出された結論が自分と異なる物であっても、それを覆すだけの情報が無いのであれば、それは「正解」として受け入れる余裕は必要。そう言うことを繰り返して経験なり知識なりを積み重ねることで、情報リテラシーなるものは構築されるわけですから。でも、記事にも書かれているような、先ずは最初に「結論」があって、それを論理付けするために、都合の良い情報をつまみ食いしたり場合によっては加工したり捏造したりすることを、何の疑いも無く続けていることの方が、今回の集団的自衛権の異なりも恐ろしい話です。過去、メディアはそうやって大衆を扇動して戦争への道を後押ししたわけだし、本来情報のフィルターになるべきメディアが、情報の発信器になっていることが、今の社会における最大の問題の一つじゃ無いかと感じるわけです。

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