2011年8月10日

慰霊祭

広島と長崎の被爆者慰霊式典の様子をTVで見ていて、今年は福島の事にも触れざるを得ないのは仕方ないと思うけれど、凄く違和感を感じますね。同じ「原子力」というキーワードを共有しているとは言え、方や大量破壊・殺傷を目的とした平気の犠牲者に対しての慰霊であり、もう一方は人災・人的ミスもあったけれど、1000年に一度という大災害が引き金になった事故の影響を、同列に論じて良いものだろうか。

前者の核兵器廃絶は、日本が核兵器を持っていない以上、周辺の報告に対しての働きかけであり、言ってみれば外交防衛問題。後者の福島原発事故や原子力エネルギーは、反対に国内問題であり、純粋に国内の経済活動、エネルギー問題の話。広島、長崎の式典での本来のテーマが何かと考えれば、この場所で後者の話を声高に取り上げるのは、ある意味これまでの被爆者・犠牲者を利用しているだけで失礼な話ではないかと思います。

こちらの記事の中で長崎市長が 「1カ所の原発事故による放射線がこれほど大きな混乱を引き起こしている今、核攻撃がいかに非人道的か、はっきりと理解できるはず」と訴えたと書かれているけれど、相手を殺傷するために作られている全ての「武器」が「非人道的」なものであり、仮に「人道的な武器」があるのだとしたら何だろう、と。福島原発の肩を持つわけではないけれど、津波の影響で無くなった東電職員や作業中の疲労から無くなった人、その後の混乱で将来を悲観して自殺した人は居るけれど、原発の放射能で無くなった人は今のところいないわけで、そういう意味では核兵器による殺傷行為と原発事故による今の混乱は、違うものだと考えます。紛争地区で、例えば戦車や装甲車によって殺傷された人と、一般道の交通事故で無くなった人を同列に扱って、「だから内燃機関による移動車両は無くすべき」と言うような違和感というか。

実際に被爆した広島や長崎で、少なくなってきたとはいえ、まだ当時の経験をした人が残る時代で、ああいった悲惨なことを繰り返さないようにメッセージを発信していくことは大切なことだと思います。でも、それならば、その場でのメッセージは、核兵器廃絶という一番重要なテーマに絞るべきだと思うし、同じ「原子力」というキーワードを持つからと言って、そのテーマをどんどん広げていっては、本来の意図がどんどん薄くなるような気がするんですよね。それって、間接的に被爆者の慰霊と言う一番のテーマを蔑ろにしている行為なのではないかと思います。どうしても言うのであれば、慰霊式典では被爆者慰霊の話だけをして、その後で、場所を変えて言及すれば良いだけの話だと思うんですよね。結果的に「見てくれ=Visibility」だけを考えているから、今年の式典はどちらも違和感を感じる内容だったように思います。まぁ、あの人が悪いんだけど... 基本的な日付すら間違えるくらい何だから、自分にとってのメインテーマは被爆地の慰霊ではないということなんでしょう。

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