善行積んでるのに酷い目に遭わされるし、なんで老人になっちゃう玉手箱を渡したのか。たしかに不自然な物語。この良記事を読んで疑問が全部氷解した。元の話はハッピーエンドだったとは。/1000年以上前から語られる「浦島太郎」には教訓がない?|3つの理由と違和感 https://t.co/B3fXyvvOrs
— 佐々木俊尚 五刷決定!「フラット登山」絶賛発売中 (@sasakitoshinao) September 23, 2025
佐々木俊尚氏の引用から、誰もが子供の頃読み聞かされた経験のある「浦島太郎」の本来の意味についての記事。引用元の解説記事を読んで思ったのは、この手の「改編」というのは他の事例でも聞く場合も有り、多分理由や原因はいろいろ何だろうけど、結構変化して現在理解されたり利用されていることも多いんだろうな、と。
一番身近な例では「言葉」自体がそうですよね。例えば「やばい」という言葉は、自分などは「非常に不味い状況、危険な状態」という理解が100%ですが、最近では「良し悪しは別にとして、かなりのレベル・状況に有ること」みたいな意味で普通に使われている。だいたい言葉には、その言葉が一般化されればされるほど、反語として使われる事も増えるだろうから、そうなると一つの言葉が「表と裏の意味」を持つようになるのはある意味当然だと思う。それに、言葉でも「書き文字」の場合は前後の意味を比べないと本来の意図は中々汲めないけれど、話し言葉で使われる場合は、その時の語調とかイントネーションみたいなもので「あっこれは否定的な意味、肯定的な意味」と判断出来る時も多いですし。
こういう話は日本固有でも無くて、海外の寓話とか童話でも同じ様な変異を聞くことがありますよね。さらに言えば、海外の話の場合は、日本に入ってくるときに翻訳されたときに不味い実が少し変化するだろうし、そこで海外の習慣とか背景を日本風に変更すると、また元の意味が変わってくることも多いだろうし。それこそビデオ映像なりで完全にその状況なり光景の様子が残されない限り、多くの場合は言い伝えを代々口伝えで伝承して行っただろうから、その内容も徐々に変化するだろうし。それでも、明治時代の変更でも、もう100年以上も前に「生まれた話」なら、十分昔話として認識しても良いだろうけど。
私のiTunesのライブラリーは、90%近くは1980~1990年代の楽曲(J-POP/フュージョン)ですが、まだ半世紀も過ぎていない時代の歌詞でも、多分今では通用しないなと言う言葉が一杯感じられます。当時の歌詞でよく使われた「ダイヤルを回す」なんて、今では想像出来ないでしょうね。後は、「煙草関連の描写」何かも、現代ではイメージが沸かないだろうし。だいたい「レコードを掛ける」とか「ポケベルを鳴らす」とか「駅の伝言板」とか「カセットにダビング」、意味不明な歌詞ばかり(笑)。今と比べて圧倒的に不便で手間の掛かる世の中ではあったけれど、その分色々思い出や記憶も多かった気がするなぁ。「煙草は拙いから、コーヒーを飲むに変えよう」「ダイヤルを回すでは意味が通らないから、DMを送るにしよう」「レコードを掛けるも伝わらないから、お勧めから選んだ曲にしよう」と、どんどん変わっていくんだろうなぁ。そうやって、自分自身が浦島太郎になっていく気がする。
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