2025年9月8日

継続は力

佐々木俊尚氏の引用から、「競争よりは、心の充足」という時代の変化に関してのコラム。コラム中、「競争から降りる」という言い方をしているんですが、私が感じたのは「他人の競争には参加しない」みたいな感じかなぁ。例えばどれだけ良い環境に居るかとか、どれだけお金があるかとか、どれだけものを持っているかみたいなのは、「地位」とか「貯金」とか「財産」とか、言ってみれは共通な尺度みたいなものがあるから、自分と他人を比較して上下みたいな評価ができる。だから、何となく自分もその競争に参加してより上を目指すみたいな感覚が生まれてくる気がします。

そこに「自分だけの尺度」みたいなものが見つかれば、それって比較するものは「自分でやって、自分がどれだけ満足したか、満ち足りたか」という判断だけしか無いから、それって良ければ満足だし、不満が残れば次に向けての動機付けになるわけです。それって、「競争」という言葉は馴染まないけれど、自分が気持ち良ければ持って色々経験したい獲得したいという欲求は当然生まれるわけでそれは、自分自身で「More and more is better」という状況をつくっているのと同じ様な気もします。でも、対象が自分だけだから変な意味での「競争心」は生まれないだろうし、より多くという気持ちが生まれても自分自身に跳ね返る話だから、そこで自然に抑制力みたいなものも生まれるだろうし。

「競争」あるいは「比較」ということは、対立も生まれてくるけれど、そこで切磋琢磨して新しいものが生まれる源泉にもなり得るからあながち否定も出来ない。自分だけでやろうと思うと、それって「修行」みたいな話になるんだけれど、競争から降りても「修行」状態になってしまうと、やはり苦しい時間が続きます。だから、競争から降りて自分の前に広がった世界に嵌まりすぎるのも不味い気がする「肩の力を抜く」だけでなく、「意識の力も抜く」心構えが、魂の欠片が見えてくる秘訣じゃ無いだろうか。

結局「競争」となってしまうと、「スタート」と「ゴール」が設定されるわけですよね。しかも競技種目の「競争」と違って実社会での始末が悪いのは、ゴールしたと思ったら直ぐに次の競争のスタートになること。競争だから、100mのように短くても、マラソンのように長くても、苦しさの種類は違うけれど苦しい時間はその間続くわけです。で、競争から降りてジョギング、あるいはウォーキングにすれば、違う光景が見えてくるけれど、人間というのはそういう状態が長く続くと、また刺激が欲しくなる。淡泊な味付けは良いけれど、時々はちょっと濃いめだったりスパイシーなものを口にしたくなるような時期は必ず出てくるもので、そういう時にそれを一時の気分転換と割り切れるか、またより刺激を求めて競争に戻るか、それを乗り越えられるある意味石の硬さというか欲の無さみたいなものを体得していることも必要かも。自分自身に対しての競争というかゴール設定として「継続すること」というテーマ設定が、一番の動機付けになるのかな。

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