2025年3月8日

データと情報

もう一つ、佐々木俊尚氏の引用記事から、「知識と教養」の違いに関してのコラム。同じ山頂からの光景でも、写真や動画などで見る景色と、実際に苦労してそこまで登頂して見た景色では、意味合いも実感も理解の度合いも全く違うと言う話。 これは良く分かる話で、写真で見た光景には、その光景だけの平面的な情報しか得られないけれど、実際に登山をしてみた光景ならば、そこに至る裏付け情報も付加される分、厚みが生まれるはずですからね。

コラム途中に書かれている、教えることで知識の再認識が生まれるというのも、スポーツ指導者に良く有る話で、名選手必ずしも名監督・コーチになら無いのも、これが理由だと思う。つまり、自分の技術や知識を言語化するとともにそれを伝承できる形にする事は、自分が無意識に行っている技術を、再構築出来る技術があるからこそだから。特にスポーツの場合は、無意識に行っている技術が結構多くて、これを自分がどう意識してどの様に体を使っているのかと説明するのは中々大変。100%精確で無くても、こう言う意識でこの部分を使うとか、こう言う反射運動が出来るようにこう言う練習をしている、みたいなゴールに対しての工程を示す事が出来るかどうかが、指導者としての大きな素質だと思います。

以前ネットで見つけて名言だなぁと感心したことの一つに、素敵な女性に対して、スリーサイズは「データ」、「自分好みかどうか」が「情報」、みたいな例えがあって「なるほど」100回位膝を叩きました(嘘)。これと同じで、知識を色々な文献やネット等から収集して蓄えることは、単にデータベース(DB)にデータを蓄積するのと変わらない。勿論インデックスを振って、必要な時に素早く取り出すことで「知識を利用する」事は出来るけれど、それは単にデータを右から左、上から下と移動しているだけに過ぎない。それに対して、最近の生成AIのように「学習」する事で、データ間のルールや関連性みたいな物を付加していくことで、「情報」へと昇華されていくのだけれど、今の生成AIはまだデータを多用的に組み合わせているだけで、ある意味データと情報の中間地点にいるだけだと思う。これが生成AIが自ら情報収集するような時代になると、初めて生きた「情報」へと繋がるのだと思う。

データ(=知識)が無いのに情報だけ獲得しようとしても、それは雑音(=ノイズ)との違いが判断出来るデータがなければ、意味のある信号なのか乱雑な雑音なのか判定できないように、やはり知識は重要だし豊富に保有していれば、そこからの解釈にも幅が生まれることも事実。私は子供の頃から本だけは好きで、主に江戸川乱歩の「怪人二十面相」シリーズや、エドモンドハミルトンの「キャプテンフューチャー」シリーズ等、手当たり次第に読みあさりましたが、それが好奇心につながり、科学技術への憧れみたいな物に成長して、お年玉でトランシーバーを購入したり、電子ブロックを購入して電子回路に対しての知識を増やしたりして、それが大学の専攻をコンピューターに決め、まぁそれ関係の仕事にも出会えたので、ある意味理想的な歩をしてきた気がします。その中には、本当に無駄なことや遠回りもあって、それがなければと言う気持ちも少しはあるけれど、結局はそう言う経験がなければ後の経験にも繋がらないわけで、だからこそ最近の「タイパ」とか「ポイ活」みたいな、コストや効率だけを優先するような事にはちょっと抵抗感を感じるんですよね。今の時代は、回りにデータは溢れているので、それをどの様に処理・調理・加工するかが優先してしまうけれど、その為には自分の中にそれに対応出来るだけの「多彩な経験」が必要な気がします。まぁ、こう言う考え方自体が既に時代後れなのかもしれないけれど。

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