ネットで話題になっていた、「合成のように見えるけれど合成では無い自然を撮影した一枚の写真」の記事。
結構真剣に眺めていたんですが、どうしてもくりぬいた白い鳥(サギ?)を、左右で異なる背景画面に合成したようにしか見えない。でも、ここから少し惹いて映像を見ると、今度は全く自然な写真にしか見えなくなるから不思議。海岸に茶色く見えるコンクリートの壁みたいなものがあり、右側の上半分はそのコンクリートの壁部分で、下半分はその部分が海面に反射しているもの。そして左半分はコンクリートの壁が無い海がそのまま背景として映っている状態。最初の写真を見て多分殆どの人が先ず感じるのは、背景を左右で違うものをくっつけたのだろうという事だと思います。その理由としては、左の青、右の黄色と明確に左右で色味が違うから。ただ、そう思っても納得出来ないのが取りの足下の様子で、足が入っている水面部分が丸く波紋が出ていますが、この部分は左右で合成されているような印象を受けないくらいの自然さ。取りだけで無く、その足下回りも含めて合成したのかなと感じます。もう一つ不思議な違和感を感じるのは、右側の中央付近の黒い帯の部分が、左側の海の写真に引っ張られるのか、水平編のように感じられるんですよね。だから、左はズームの背景、右はワイドの背景を合成したのかなと最初感じました。
何度も言うように、最初の一枚だけ見ると、合成写真なのかあるいは着色とかした加工写真にしか見えないのですが、種明かしとも言える更に惹いた写真(二枚目)を見れば全てが納得。二枚目の写真では、中心にいた白い鳥がおらず、あと太陽光の方向も違う(多分撮影時は撮影者の背後から正面を照らすような位置関係だったと思う)ので色合い的には全く違うのですが、不思議に感じた部分は全て氷解されて納得出来ます。写真だけでなく、こう言うことは仕事でも社会でも良く有る話で、ある時にその時に見えるものだけで判断しようとすると、原因が分からない、理由が分からない、関係が分からない、解決策(=理解)も分からないと八方塞がりの状態になりがち。でも、一歩退いてみたり、視点を変えてみたり、あるいは時間が経過することで、それまでとは異なった「視界」が得られると、分からなかった原因や理由や関係が見えてきて、あっと言う間に解決策が見つかることは良くありました。思い込みなんかも、この類の間違いを起こしやすいもの。「物事を俯瞰する」と言われるけれど、二次元の認識を三次元の視点で見てみるというのは、一番簡単で一番分かりやすい対策でしょうね。上の写真も、一枚目は正面から見ているから平面的な情報しか分からないけれど、二枚目は少し上の一から見下ろしているので、全体の関係もよく分かるし。
こじつけるわけでは無いのですが、ネットの社会はそう言う傾向に陥りやすい気がします。例えば、日頃は関わることの内容な著名人の発言を即座に知ることが出来ると、何となくそれが正しいように感じてしまう。たまたま多数目にする意見を聞いていると、それが自分の考えとは反対の意見であっても「みんなはそう考えているのか」と誤解してしまう。書かれている、最もらしい言い方とか使われている難しい専門用語だったり外国語が、何か凄く権威を与えているような感じて信じてしまう。自分と立場や意見が異なるから懸賞するのではなく、例え同じ意見や立場であっても、やはり視点を変えて検証することも必要ですよね。言ってみれば、セカンドオピニオン、サードオピニオンと確認していくことと同じ。色々なことに興味を持っている人だとか、新しもの好きだとか、案外飽きっぽい人はそういう行動を躊躇しないのでは。逆に、専門性が高くなりすぎると、どうしても自分の今の理解に確執してしまうような気がする。所謂「専門馬鹿」みたいな状態が、そうなのかも。年を取ると、段々と新しいものに手を出したり、新しい考え方に対して保守的な印象を持ちがちだけれど、それはそれとして「でも一寸違ったらどうなるんだろう」みたいな、一ひねりする気持ちはいつまでも持たないといけないなぁ。
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