2023年7月24日

微妙な論理のすり替え

とある方面では有名(悪名?)な、沖縄タイムス記者・阿部岳氏によるコミュニティノートへの挑戦ツイート(マテ)。

自分がこのツイートを読んで感じるのは、一段目と二段目で微妙に論理のすり替えをしているなぁと言う事。それを無意識にやっているとしたら、それはそれでこの人の資質かもしれないし、意図的にやっているなら相当悪質だと思う。 

1行目に関しては、100%事実だしその内容も正しい文章だと思います。唯一気になるのは最初の「政府や東電が...」と恰も「処理水」と読んでいるのは政府や東電だけのような言い方をしている点でしょうか。「取り除けなかった」という部分も問題表現だと思うけれど、それは後述。それ以上に問題は次の二行目。「汚染水を処理したが、まだ汚染物質が残っている水だから汚染水と呼ぶ」と書いているけれど、それは汚染物質と元々の水が完全に分離できれば可能な話。だいたい、元の水にも幾らかの放射性物質であるトリチウムは残っているわけだから、生来のトリチウムと今回の事故で追加されたトリチウムの判別何てどうしたら可能なのだろうか。だから、考えるべきは汚染物質が残っているかどうかでは無く、その残量が問題無いレベルなのかどうかということのはず。既に同様のレスが付いているけれど、この論法が正しいとすれば、

誤報を報じた記者を処分したが、まだ社内に残っていて記者として仕事を継続しているのだから、誤報記者・誤報メディアと呼ぶ方が実態に即している

と呼ばれても反論出来ないのでは。

1行目を「事実」、2行目を「私の意見」として、どちらもコミュニティノートに対しての挑戦のようなことを最後に書いているんですが、トリチウムで汚染された水からまだトリチウムを取り切れていないのだから「処理水」ではなく「汚染水」という論理は破綻しているでしょう。何故なら、元々の水に含まれているトリチウムと汚染されて増加したトリチウムの区別は出来ないし、全てを取り除くことは出来ない(そもそも、元の井戸水にも含まれるものなのだから)ので、そこは比較対象にはならない。また、仮に井戸水に含まれるトリチウムが「トリチウムα」で、汚染されたものが「トリチウムβ」とコロナウイルスのような異性体みたいなものなら、それを区別分類する事も出来るだろうけど、トリチウムは水素の三重体でαもβも無いもの。つまり、そのトリチウムの量は比較の対象になりうるけれど、その種類由来に関しては違いは無いわけで、となれば「取り除けなかったのか元々残留していたものなのか不明」なものを理由に批判する事はフェアでは無いの思います。と言うか、トリチウム以外にも完全には取り除けない放射性物質は処理水の中に残留しているけれど、それは基準値以下だから問題にしていないのに、そこを指摘していないのもおかしな話です。また、彼の汚染水論法を適用すると、一般の家庭に配給されている「飲料水」も、その言い方を変えないといけなくなります。取水された状態では飲用に適さないけれど、浄化処理をして一定の水準に処理したから「飲料水」として利用できるわけですから。彼の論理では、「飲料水」ではなく「河川水」とか呼ばないといけなくなる。元々の汚染水を処理して、本来ならば問題無い閾値まで処理されれば「処理水」と言って良いものを、「完全除去」という非現実的な閾値を設けることで持論を維持しようとしているわけで、その部分は単なる言葉遊びで本来の議論とは違うと思う。

ところで、この記者さんはtwitterの「コミュニティノート」を「コミュニティーノート」と書いていて、これが個人的には凄く違和感を感じます。つまり「コミュニティ」なのか「コミュニティー」なのかという「長音符号(ー)」の有無。メディアも準拠していると思われる文化庁の「外来語(カタカナ)表記ガイドライン」を見てみると、「語尾が-*yで終わる語句(Page-9)」として「community(Page-25)」は「コミュニティー」という長音付表記が正しい事になり、そこは新聞記者としての矜持を見せたとも言えます。でも、twitter社の説明を見ると、日本語のページでは「コミュニティノート」記載されています。さらに原典となる英語のページを見てみると、"Community Notes"と、大文字から始まる語句として表記されています。つまり固有名詞では無いけれど、それに類する扱いの「専門語句」みたいな扱いなんだろうな。上記の文化庁のガイドラインは、外来語を日本語表記する場合のガイドラインなので、一般的に「this kind of community system is (この種のコミュニティー組織は)」とか言う文章を日本語で使用する場合には適用されるべきガイドラインだろうけど、今回の様に一種の専用語として「コミュティノート」の様に一つの語句のように使用している場合は、オリジナルの表記を尊重するべきだと思います。「ガイドラインではこうなります」と言えば、twitter社の示す事実よりもガイドラインを優先していることになるし、「私の意見です」と言えば、それも同じく事実に反していることになり、結果的に事実に反した自分の意見を吹聴しているだけになるんだけれど。まぁ、そこまで考えての書込では無いと思うけれど。しかし、こう言う微妙な事柄には得意そうな雰囲気だけは感じられますね(笑)。

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