2022年9月28日

国民の何割と言う言い方

今回の安倍元総理の国葬儀の開催是非では、当初は過半数が賛成だった物が、その後旧統一教会の話題が出てきたり、例によって反対意見がフレームアップされるような報道もあって、アンケート調査では、賛成優勢から五分五分になり、それが反対が六割くらいに変わったのが直前の状況。この状況を持って、「国民の六割が反対」という伝え方をメディアはしていたんですが、実際に国葬儀の一般弔問の様子を見ると、一般の献花者は2万3000人余りに対して、国葬反対デモなどの参加者は3000人という報道があり、予想以上に国葬儀が支持されていたことが明らかで、とても国民の過半数が反対しているとは思えない。 

開催賛成・反対と言う割合は、多分各メディアが独自にアンケート調査とか覆面調査みたいな事で統計を取っているんでしょうけど、それがそのまま国民全体の意見を反映しているかというとそれは違うでしょうね。どうしても何らかのバイアスは掛かるだろうし、これが1:9で反対とか言うのであれば、国民の過半数が反対と言う事も出来るだろうけど、4:6当たりだと良いところ「五分五分」というのが正直状態だろうし。いずれにしても、一つの傾向ではあるだろうけど「国民の意思」というにはちょっと無理がある気がする。メディアでは「国民の六割が反対」と伝えるけれど、それって事実ではなくて「アンケート回答者の六割が反対」が事実な訳で、そう言う言い方をするメディアは何らかの誘導を狙っているのかとも勘ぐってしまう。

「国民の声が」とよく言うけれど、その声の代弁者として国会議員を選挙で選んでいるわけで、そう言う意味では完全ではないし不満も多いけれど、独裁みたいな決め方がされたわけじゃ無い。法律的にも、直前で最高裁で開催阻止の申し立てが棄却されて逆にお墨付きも付いてしまった。何か一つの課題が有れば、それに対して反対・賛成・未定の三つの事象は必ず存在するわけで、それを言い出したら結局何も出来ない話になってしまう。じゃぁ、全て国会議員に託して、国民は何も言わずに黙っていろと言われて納得するかと言えば、それはそれでまた問題なわけで、そう言うバランスをどう取っていくかがある意味政治の妙だと思うんですが、そう言う意味では今の岸田首相はあまり得意では無いように見えます。安保法制が典型だと思うんですが、あの時もどちらかと言えば反対の意見がメディア等でも多数を占めたけれど、実際制定されてしまえば、あの反対行動は何だったのかという位沈静化してしまったし、最近のウクライナ情勢を見ていると、やはりああいうことも決めておかないと駄目だなという意識も今更ながら確認されたと思うし。

今更ながら思うのは、人間はどうしても大きな力に流されがちだから、例えば自分はAと思っても、「いゃ、世の中はBに成りつつある」みたいな話を、それもそれなりに信頼性とか権威のある場所から聞こえてくると、どうしてもそちらに傾いてしまう。「長いものには巻かれろ」というのは、やはり多くの人の心理に有る物だと思うから。さらに言えば、多くの人はそのボーダーに集まって居るものだろうから、実は一寸した刺激でどちらかに傾いてしまう。今回の「国葬儀」というものを「安倍政治、政治家安倍晋三」に対しての評価結果として位置づけるならば、やはりそこは故人に対して公平に評価を与えるべきだと思うけれど、余りにバイアスが高すぎてそれすら出来ないでいたことが問題の一つだと思う。それが「国を二分する」とまで言っているメディアなんだけれど、今回は「開催反対・賛成」の二択だからそう見えるだけで、多くの課題の場合はその間に幾つも妥協点があるから国民の選択肢もばらけていくだけの違いだと思うんですよね。いつも思うんだけれど、グリコ乳業のカフェオーレの詩「白黒付けないカフェオーレ」はまさに至言だと思うなぁ。

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