ジャーナリストの佐々木俊尚氏のnoteから、「メタバースが人間社会の何を変えるのか」という話。今メタバースが普及してきて、そのメタバースの中に「第二の自分」「メタバース人格」みたいなものが生まれてきている状況が、2000年代にSNSが普及してきた時に「ネット人格」と似ているという話には、何となく頷ける気がします。私は、それよりもさらに一世代二世代前の1970年後半くらいからのパソコン通信くらいから関わっているんですが、さらに「コミュニケーション」という意味では、1970年前半からアマチュア無線(HAM)をしており、そう言う意味ではリアルとは異なる人格との対話経験は、もう半世紀を超えようとしています。
20世紀の頃の「ネットコミュニケーション」、特に1980年代くらいまでは、そのコミュニティに参加するには当時としては結構高いハードルであった、パソコンであったり、モデムであったり、それなりの知識や技術が必要だったので、参加者のレベルがある一定の知識層で多く占められていたので、今のような混沌差はまだそんなに感じられなかった時代。それでも、やはりオフ会とかやると、ネットでの印象とそれこそ180度違う人なんてざらにいたわけで、そういう意味では「ネット人格」というものは当時から既にあった物で、それがSNSの普及で参加者の敷居も下がったし、それで参加数も増えてさらに混沌としているのが現在と言えるでしょう。と言うか、「孟母三遷」とか「生まれより育ち」じゃ無いけれど、人間の「心」なんて、周りの環境で幾らでも変わるわけだから、実社会とネット社会で違ってくることは、ある意味その環境に馴染みやすいように心が最適化されると思えば不思議じゃ無い。
noteの中で紹介されている藤田晋氏の言葉では無いけれど、「リアルとネットでは人格が変わる」というよりは、「ネットではその人の本性が出る」と言うのが正しいと思う。それは、リアルでは様々な柵があって、それに合わせる・耐える事が必要だけれど、ネットでは(当時でさえ)そう言う制限は無い時代だったから、ある意味自分で好きなことをやれた時代でしたからね。当時は、ハンドルネームとか使用して居ても、何処の誰と分かっていたからそれほどひどい例は余り無かったけれど、今のように匿名が前提の時代になると、完全に別人格でネットとリアルに存在する事が逆に当たり前の時代と言えるかも。それが書かれているような「ギークの楽園」がリアル同様「混沌のるつぼ」になった故に、両者に違いは無くなった。それは、そのツールの利便性が認識されて普及していけば、当然そうならざるを得ない事は、メタバースだけで無くこれから生まれてくる技術全てに言えるは無しだと思います。
私は仕事でも多少はこの分野と関わり合いがあるので、比較的こう言う物を理解して経験している方だと思うのですが、個人的に感じる最大の弱点はHMD等のVR機器で、これを着用する事でかなりの没入感が私は損なわれるように感じます。究極的には、人間の感覚器官に直結したインプラント見たいな物を装着して、そこから入力される感覚情報を現実として感じるような「マトリックス」あるいは攻殻機動隊みたいな世界が一つの到達点だと思うけれど、流石にそれはまだかなり未来の話。今可能なのは、日焼けサロンの日焼けカプセルみたいなものに入り、その中で半覚醒状態で外部刺激を与える形で疑似感覚を感じさせることは可能かもしれない。でもそれは、全て思考の中での体験で完結させる物で、メタバースとはまたちょっと意味が違う気がします。自分としては、AR/MRのような、リアル社会に軸足を置きつつ、そこにメタ社会の情報がオーバーラップされるような形が、少なくとも今の時代では一番実現可能だし、効果的な気がします。ただ、それだと最初に書いたような「ネット人格」は余り現れないだろうし、リアルに重みがある形なので、これからのネットネイティブ世代は満足しないでしょうね。そして、そう言う世代にとっては物理的な「移動」はネットの世界では意味の無いものになり、それが自分のようなリアル世界重視の世代との一つのギャップの象徴になるんじゃ無いだろうか。
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