佐々木俊尚氏の「政治に本当に必要なのは、感情を揺さぶることじゃなく「信頼」だ 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.681」と、その内容をかなり要約したラジオでの発言。自分の座右の銘(?)に「言葉が汚い人は、心も汚い」というのがあるので、まさにそれと同じ話。特に自分はこれでも理系育ちなので、有る程度筋立てとか論理的な流れ出ない話は、下らない駄洒落とか一発芸を除いては中々受け入れられない(マテ)。
個人的に思うのは、多分「話して説明」する場合と「書いて説明」する場合では、前者の方が感情的要素が入りやすいのでは無いかという事。「話す」時には、基本リアルタイムで口から出た言葉の、それもせいぜい数秒くらい前に出た言葉との繋がりを、全体として何分何十分という一つの「話」にまとめないといけないから、話をしている方も途中で脱線するだろうし、辻褄合わせのためにどうしても強引に話を転換しないといけないかもしれない。また、聴いて居る人の興味や集中を維持するためには、時には強い言葉とかキーワード的な言葉も必要になるでしょう。それに対して「書いて説明」する場合、その典型は「論文」だと思うんですが、そこには無駄な記述は要求されないわけで、論理的な思考展開のみが要求される。勿論、ここで言うのは自称論文ではなくて、それなりに査読があるような場合であることは当然。私は、文系の論文って殆ど読んだことは無いけれど、ある事象を説明するあるいは証明するには、当然背景説明とか関連性の説明とか、論理的な展開が無いと説明にならないわけで、全体の内容は理系・文系、そんなに違わないんじゃ無いかと思います。
じゃぁ、何で「書くメディア」であるSNSで混乱するのか。あれって、言ってみれば「話を文字にしているだけ」だから、実質「話して説明」の分類だからですよね。同じSNS系でも、例えばホームページの記事とか、noteのような媒体は「書いて説明」するに必要な、文字数もあるだろうし、自分なりにレビューもするだろうし、それなりに時間を掛けて公開するという前提があるから、書くということが主流。レビューできるとは言っても、まぁ精々書いてから一度読み直す程度から、別ファイルに投稿内容を準備して、そこで較正してから投稿するような場合まで、千差万別だとは思うけれど、「読み直す機会」と「頭をリセットして確認」で切ることは大きいと思う。それに対して、twitterだと、殆どの場合は書き込んで投稿してから初めて自分の文章全体を見る・読む、と言う人が多いんじゃ無いだろうか。しかもtwitterは投稿後修正が出来ないから、「まぁ、いいか」で終わってしまう事が殆どだろうし。
SNSでも、的確な言葉や指摘をして居る人も多くいることも事実で、誰も彼もが感情的という訳ではない。でも、感情的な発言は刺激的でもあるし、それが受ける事も事実なので、どうしても取り上げられる機会も多いだろうし、それが有名人の行為となれば、その内容以前にその人という事で注目も集まる。そうなると、コンサートで観客を盛り上げるのと同じで、激しい言葉が出れば受けるし結構観客側もそれをきたいして集まってきている所も否定出来ない。本来なら、何故自分はそう考えるのか、「これは正義だ」と言うのであれば何の何に対して誰の正義なのか言うべきなのに、何となく普遍的な事(ネットでは「主語が大きい」と言われること)に擬えれば、それで全て説明されるように感じてしまう。それをネットリテラシーとひとくくりにしてしまうのは簡単なんだけれど、今のように空気を吸うように誰もがネットにアクセスする時代、無意識にネットとリアルを混同してしまうんですよね。そうなると、論理的に説明する事の方が「疑わしい」事に取られてしまうのは、例えばリアルでワクチンの効用を説明為ても疑問を持たれるのと同じだし、原発の処理水を未だ「汚染水」と呼び「トリチウム除去」を言うのと同じ。まぁ、別の見方をすれば、その人の発言が感情的ななのか、論理的なのかで信頼性が判断出来るバロメーターになるとも言えます。でも、疑似科学とか偽科学みたいな、「いかにも信頼出来るようなデータ」を見破るリテラシーが、次に必要になるんですよね。そこも、ネットとリアルが繋がっている証拠だよなぁ。
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