2021年10月24日

排他的選挙

世の中的には、来週末の投票に向けてこの週末は一番選挙戦で盛り上がるときなんでしょうけど、静岡県では今日が参議院補欠選挙の投票日なので、二週続けて選挙がある状態(確か、山口だったかな、それちらも補選があったはず)。当然、メディアやネット等では選挙関係の情報が増えているわけで、その中には各候補の主張だったり、支援している人達の声もあります。

そんな中で気になるのが、特に野党関係者・支持者と思われる人達が「〇〇党の××候補を落選させよう」という、所謂「落選運動」の発言や運動(ハッシュタグとか)をしている事。同時に行われる最高裁裁判官の国民審査は、最高裁裁判官として不適格と思われる人に投票するから、これはある意味「落選投票」と言って良いと思うけれど、本来の衆議院選挙は「国会議員として送り出したい人を選ぶ」選挙なのだから、「落選運動」という考え方自体が変だと思う。それならば、自らが応援する・支援する候補をいかに当選ラインにまで挙げるのか、それを考えなきゃいけないはずなのに。あるいは、これが昔の中選挙区とか大選挙区制で、1選挙区から複数人の当選議員が出るのであれば、まだ分からない事はない。例えば3人区で6人が立候補していて、複数名が当落線上の3~4位争いをしているのであれば、まぁ「〇〇候補はこう言う駄目なことをした」とか「××候補は過去にこう言う発言をして居る」という、所謂「ネガティブキャンペーン」が産まれるのも分からないでも無い。でも、今の選挙は1区1人の小選挙区制がベースになっているわけだから、誰を落とすのかでは自分にメリットは生まれないよけで、この人を当選させるという考えが無いと駄目。

結局自分の好まない立候補者を落選させるという考え方は、自分の欲することしか認めない、物事を排他的にしか考えていない証拠なんじゃ無いだろうか。「排他主義」って、確かによろしくないことをどんどん消していって、最後に残るものが「至高の、最高の、究極のもの」であれば良いけれど、過去そんなことが生まれたことは無い訳で、結局はその「排除するもの」を決める人達に取って好ましいものが残るだけで、それ以外の人にとっては不便だったり不満な構成になるだけ。ある意味、独裁とか支配という世界が、そう言う排他的考えのゴールだと私は思うのですが。だから選挙での応援だって「〇〇候補はこう言う主張をしているが、(自分達が応援する)××候補は、こうこうこういう考えとアイデアがあり、より多くの人が利益を得られる」という内容ならば、「それなら××候補に一票」と思う人も出るだろうし。

こう言う考え方とか行動って、選挙だけで無く例えば多様性に関しての話にも多い気がする。「今は〇〇だけれど、本来は××するべき」みたいな事が出てくると、「〇〇は駄目で、××だけが認められる」という話にすり替わっている事が多い気がします。勿論、〇〇の内容にも寄るけれど、それなりに世の中で根付いている事柄を、一気に変えることは実際には難しいわけで、それこそ犯罪でも無い限りはその〇〇にもそれなりに意味も有るだろうし。だからこそ「今は〇〇だけれど、今後は××も含める・認めるべき」という考え方が「多様性」の「多様」になるはず。結局、排他的な考え方が、昔からの「差別」とか「虐め」という問題の元凶だったはずなのに、あえてそれを要求する人達がいることが、しかも選挙という一番相応しくない状況の中で、堂々とその主張が公開されて中にはそれを認めるそれなりの地位の人が居ることが、個人的には凄く不思議。そう言う意味では、日頃綺麗事を言っている人の素顔が垣間見ることが出来る事も、選挙をする大きな意味の一つなのかもしれない。

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