2018年9月26日

新潮45休刊

掲載記事に端を発して、とうとう掲載紙の新潮45が休刊に。その記事自体や内容ではなく、掲載紙を休刊にするって言うのは、何か間違っていないか。それって、例えば交通事故が発生した時に、その事故を起こしたドライバーでは、乗車していた車のメーカーを批判するようなものだと思うのだけれど。

これって、話し合い・議論でお互いに理解をして合意点を見いだすのでは無く、気に入らない奴は抹殺してしまえと言う「力の論理」じゃないのか。仮にそう言うことが許されるのならば、どんな場合でも「気に入らない」という理由で、メディアや媒体が物理的な反撃を受けることを許す悪しき前例にしかならないと思うだけれど。今回の記事に不満を感じる人もそりゃぁ居るだろうけど、それなら彼らが取るべき対応策は、その新潮45上で反論の特集を組むことを要求することであり、それが出来ないのならば別の雑誌で同様の反論をして、自分達の論拠を示すべき。

今回の件が「正義」と言うのであれば、とっくに潰れて居なきゃならない新聞社とかメディアは、幾らでもあるんだけれど、そう言う立場にある組織・企業に限って大きな態度をとり続けている気がする。

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