2017年7月16日

報道責任

不破雷蔵氏のまとめコラムから、報道関係者のSNSでの「無責任・無法発言」について。
新聞などのメディア関係者がソーシャルメディアを利用すると、馬脚全開モードに突入する呪文がかけられてしまうのではないかという感を覚えさせるのが現状。
の最初のまとめが全てを表している気がするんですが、個人的に感じるのは「記者・報道関係者」という情報を扱う仕事をしているくせに、SNSでは延髄反射というか直情的な言葉を書き込んだり、検証など無く自分の欲している意見をそのまま掲載したり、およそ一般ユーザーと同等以下の反応しかしないこと。勿論中には上手く利用されている人も要るわけですが、かなり乱暴な言い方をすると、自分や自社の記事などの宣伝(リンク)をするか、自分が気に入った意見をそのまま垂れ流しているかしかないような気がする。

例えば一般ユーザーであっても、適当な情報を流したりしたら非難されるわけで、それがそう言うことを生業としてかつ公共の利益を重視しているはずの人達がその程度の事も分からないのかと、小一時間。結局、その程度の人間が書いている記事だから、その程度のことしか掲載されないという理解で、最近では信用できない情報の一番初めになるくらいの某新聞とか某新聞とか某通信社とか(笑)。

今回の少なくとも加計学園関連の報道に関しては、全くの思い込みあるいは提供された情報をちゃんと検証もせずに公に記事として配信しているわけで、それは遺物購入の製品が市場に出る場合と全く同じはず。記事の訂正は勿論だけれど、それ以上に何が間違っていて何が正解だったのかを、ちゃんとそれなりの紙面(情報量)と期間を費やして報道するべきでは。そうで無ければ、「報道」を名乗るべきでは無いと思う。

例えば何かの事件を扱う記事の場合、最初は不明な点が多々あり真実に行き着かないこともあるだろうし、場合によっては当時の情報不足から誤報してしまう場合も有るでしょう。でも、今回の加計学園問題に関しては、最初から全ての情報は公開されていたわけだし、メディア側が論拠として「文科省の文書」にしても、その出所は不審点が多いわけで、それを根拠にあたかもそれが正義として伝えたことは、今回の責任だけで無く、将来的にも同じ手法で自分達が欲する方向に誘導する可能性があることの方が重大だと思いますね。

報道機関を「第四の権力」とか「権力の監視者」と言うのであれば、今回の事件を参考に我々がもっと報道の監視者としての役割を強めないといけないのでは。フェイクニュースは論外だけれど「怪しげな情報(Suspected News)」もに関しては、もっと厳しく監視しないと、結果的にそれが事実になってしまう経験を我々は一度経験しているわけですからね。報道に対しても、まず疑って掛かる、事を忘れないようにしないと。

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