2017年5月31日

成田団結小屋

成田空港の敷地内に残っている、所謂成田闘争の遺物団結小屋の一つを今朝強制撤去したという記事。以前にも書いたけれど、私はこの成田闘争をリアルタイムで見てきた世代で、それこそ建設庁の激しいぶつかり合いから、開港時に管制塔が占拠されて延期した映像とか、さらには実際に空港を利用する立場になり、今のように世界でテロが頻発してセキュリティが厳しくなる前に、空港にはいる時に身分確認が必要な確か世界でも例を見ないような空港になったりした様子を今でも記憶に鮮やか。

私も一番の原因は、当時の運輸省や政府が丁寧に地元に対して説明をして理解を得ること無く、ある意味強制的に空港用地を決めて無理矢理と言っても良いくらいに強制的に建設を進めようとしたことだと思います。さらに、闘争が激化してきても、力で何とかなるという思いが政府にもあって、ちゃんと対応してこなかったことも原因の一つ。結果的に、力には力で対応するために、住民側に全国から武闘派が集まってきて、それが段々と「地元民の闘争」が「彼らの政治闘争」に乗っ取られていき、結果的に反対することだし毎になってしまったことが、未だにそれらが負の遺産として残っていることが最大の問題。ただ、長い時間を経てそれぞれ和解する時代になり、また経済的な理由から地元としても「成田空港」という「金の卵を産むガチョウ」は重要なわけで、だからこそ空港名も当初の「新東京国際空港」から「成田空港」に変更したわけだし、現在のB滑走路の延長やC滑走路の増設も現実的な話として進んでいるわけで、今も残る「団結小屋」の存在意義はほとんど無くなったはず。一タミからB滑走路へ移動する時、あるいはその逆の時に必ず目に入る、金網で囲まれた「横堀鉄塔」はまだ人が住んでいるようなので強制的に撤去というわけにはいかないだろうけど、今回の様に既に使用禁止あるいは放置されている場所に関しては、もっと迅速に対応しても良いんじゃ無いだろうか。

今ではほとんどの議員が個人になっているんだろうけど、当時「一坪地主」のような形で成田闘争に荷担していた社会党(現社民党)やその他議員は、空港開港当時こそ反対していた経緯から成田空港を利用しない素振りを見せていたけれど、その後結局はなし崩し的に普通に利用するようになってきているのは、今でも闘争が続いているのに矛盾していると思う。本当なら、彼らが空港を利用出来る時期は、それら闘争の拠点が撤去解決されて本来の空港機能を取り戻した時のはずでは。そう言う仁義すら無くて、単に時の権力なり多数派に反対するための活動だったから、そんなことは気にもしないだろうけど。

元々の傷が大きいから、一つ一つ丁寧に対応していくしか無いのだろうけど、ただもうそろそろ良いんじゃ無いのかという肝違う噛んでくるのも事実。来月成田空港を利用する機会があるけれど、多分またあの光景を見て、もう良いんじゃ無いかという気持ちが深まるんだろうなぁ。

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