2017年4月29日

正義のようで不正義

中日新聞に掲載された、消防団員の方々がうどん店に駐車して昼食を摂ることを批判する話。例えばこれが、消防署で待機中にお昼だからといって消防車を出して食事に出かけたなら、それは批判されてしかるべきだと思うけれど、署内の行事に参加して、次の仕事との間に途中停車して食事を取ることが問題だとは思えない。わざわざ一度所属消防署に消防車を戻して、そこから食事に出かけろというのだろうか。時間的余裕があるなら、そうするべきだと思うけれど、どうしたって次の予定があり満足に食事を取る時間も無いのであれば、今回の様に移動中に立ち寄ることが問題だとは思えない。少なくともこれを報じた中日新聞は、例えばその所属自治体のルールで一切の立ち寄りが認められていないのか、また次の予定が公務で有り消防団員の主張が正しいのであれば、24時間帯機体制の彼らがどの様にしたら適切に食事や休憩時間を取得出来るようになるのか、そう言うことを定義するべきでは。この記事のままでは、怪しからん消防団員が私語との途中にサボってうどんを食べ居たところを市民に見つかり通報された、みたいな話に矮小化しているだけ。

消防団員だけで無く、警察官にしても、救急救命士にしても、それこそ24時間帯製で万一の場合に備えているわけで、彼らは正しいことをする立場ではあるけれど、だから取って仙人のように霞だけ食べて仕事が出来るわけじゃない。勿論、仲間の中で当番制を作って食事の準備をするとか、シフトを組むとか、対策はあるはずだから、それは考慮するべき。でも、それでも賄いきれない場合だってあるわけで、それを確認せずに一概に批判するのは、単なる監視社会であり正義を振りかざす窮屈な社会にしかならないのでは。アメリカのドラマや映画では、良く警察官がドーナツのお店に入ってコーヒーとドーナツを買って食べたり、同じように外のスタンドとかダイナーで食事を取るシーンが多く見られるけれど、あの行為はあれ自体が犯罪の抑止力になっているわけで、そう言う意味では日本でも警官がお昼の時間帯に外で食事をすることは意味があるかもしれない。ただ、外回り中心のアメリカの警察と、交番のように拠点で治安維持をする日本の警察官では、これまでの歴史も違うから印象も違うので、いきなり征服でうどん屋とかラーメン屋に入ったら、それは違和感を感じることは確か。その当たりの導入は丁寧にしないと行けないと思うけれど、同じ事を例えば消防団員がお店には行って、厨房などの危険が無いか見たりとか、それなりに意味のある事になるはず。

一市民が、あるいは一人一人の個人が、有る光景を見て色々な考えとか意見を持つことは、それは自由だしそうあるべき。だから、今回もうどん屋さんに消防車が停車していて、団員が征服のまま食事をしていることに違和感を持つ人が居ても、それは仕方ないでしょう。問題は、それを恰も公共サービスに反する犯罪のような扱い方をするメディアじゃ無いかという事。中日新聞だから仕方ないという見方もあるけれど、でもそれって単純にメディアが正義を振りかざしている不利をして不正義を行っていることにしかならないんですよね。まぁ、最近のメディアは、右も左も、そんな感じな事ばかりで、一番信じられるのはネットからの色々な情報の最大公約数だったりするわけですが。

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