2017年1月27日

得る物と失う物

毎度お馴染みPCWatchの、山田祥平氏のコラムから。最近話題の「AI」に関して。AIと比較するのはどうかと思うけれど、個人的には今後AIが社会の中で認知されて利用されていけば行くほど、隠れた情報弱者が増えていくような気がしています。それって、パソコンが普及して文書作成がワープロになり、文字を「書く」ことが、文字を「入力」する事に変わってきたことで、字が書けない、漢字が読めるけれど書けないと言う状況に今なっているように、情報はある程度知っているし集める事も分かるけれど、その分析とか別の角度から自分で情報収集出来る・する事が今後難しくなっていくから。

コンピューターの普及で、企業のみならず一般の家庭でも「ペーパーレス化」が進んでいます。確かに、そうは言っても未だに紙の書類や申請書などは無くならないけれど、それらに記入するのは「〇」とか「×」とか「✔」くらいで、後は自分の住所や名前を書くくらい。何かの申請理由を書くにしても、昔は作文をして自らポールペンなどで書き込んでいたけれど、今ではそれらはキーボードから入力して記入するから、文章は流ちょうになってもそれを書く事は無くなっています。同様に、AIが集めてきた情報っていうのも、ある程度はユーザーの好みとか思考に沿った傾向の物を集めてくるだろうから、正直どんどん変更していくような気がする。ある程度AIが進歩すれば、例えば賛成意見だけで無くそれに対しての反対意見と比較するとか、メジャーな意見に対してマイナーな意見も付帯させるとか、普通の人間の考えではやりそうなことを自動的に実行してくれる社会になるかもしれないけれど、それってまだまだ先だと思う。

さらに言えば、そのAIが収集する情報元が、多分ネットの色々な場所に記録されているデータだろうから、それって既にバイアスが掛かっている情報と言えます。仮にAIがドローンとかを飛ばして自ら情報収集した物が元データとして使われるなら、それはそのAIとして信頼性はあると思うけれど、同じ情報でも何処かの新聞社の記事などを参考にして収集されると、また意味合いが違ってくるような。

今のAIの役割を考えると、多分二つあると思うんです。一つは一番メジャーなつかいかたであろう「分類(Sorting)」。もう一つがこれから期待されるだろう「支援(Assistant)」。前者に関しては、大量のデータやリアルタイムで流れてくるデータから、意味のある物、目的に適う物等を拾い上げていき、それを分類分析して傾向を調べたり、概要をまとめたりするようなことで、それだけでも情報が溢れている人間にとっては便利かも。ただ、それに慣れてしまうと、与えられたデータだけが全てだと信じてしまうことになりかねない。また、それらのデータを利用して自分なりの考えを進められる能力のある人には効率化ツールになるけれど、そうで無い場合にはどんどん情報に対して鈍感になって言ってしまうでしょうね。だから、情報は知っているけれど、その内容や信義に関しては考えが無くなっていく。時読めても書くことが出来なくなるように、ね。これって、ある意味で凄く怖いことだと思う。

もう一つの「支援」は、コラムの最後のように、例えば今の技術だとスケジュール機能とか、その人の好みによって調光したり、某かの推奨(リコメンド機能)みたいな事が期待されるわけですが、これだってそれに流されてしまうと本当に自分がやりたいことを見失うことになるかもしれない。AIが言ったからやるんじゃなくて、自分がこれやりたいけれど、どう? とAIを「利用する」立場にならないと、本当の意味で支援機能を使いこなすことにはならないけれど、やっぱり便利だと思ったら流されるんだろうなぁ。例えば、都会の便利な生活を捨てて田舎暮らしの自給自足の生活を試みる人もいるけれど、時々はそんな感じでAIの無い生活をすることで、自分自身を見つめ直すことが必要になるかもしれない。もっとも、まだAIすら満足に内蔵されていない支援も無いスマホですら、既にそれなくしては生活できない世代が生まれてきているわけで、ここに便利なAIが搭乗したら、そのままその中に埋没してしまいそう。案外人類は、AIに滅ぼされるのでは無く、AIに溺れさせられて滅亡するのかも。

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