PCWatch、山田祥平氏のコラムから、デジタル時代の資産共有に関して。コラムにも書かれているように、今の時代、昔のようにアナログコピーしか出来ないものってほとんど無くなり、デジタルコピーの時代になりましたから、オリジナルとコピーが寸分違わず作成出来る時代になりましたね。アナログコピーとして残っている、例えば書籍のコピーとか絵画のコピーにしても、高精細高解像度技術が生まれてきているから、それらで複製された場合、人間の見た目では区別が付かないレベルになってきていて、事実上アナログコピーであっても「ほぼデジタルっぽい複製」が可能になってきました。そう言う意味で、オリジナルとコピーの意味って段々違ってきていて、今はオリジナルの複製というよりも、オリジナルの代わりになってきている気がします。言い方として正しいかどうか地震は無いのだけれど、オリジナルに対して代用される「シャドー」みたいな感じでしょうか。オリジナルと同一で、違いはその実体が使用されるのでは無く、その複製がオリジナルとして使用されること。
コラム最後に書かれている「物のサービス」っていうのは、私も最近感じていることで、物理的にはカーシェアリングの様なこととか、シェアハウスなんていうのはもう普通に行われているし、ソフトに関しても所謂サブスクリプションっていうのは、ソフトのサービス化の代表では無いかと思うし。IoT、物のインターネットは、個々のデバイスがインターネット接続されて有機的なそのデバイスの機能が提供されることですが、「物のサービス」となるとさらにその上位の感が方というか、その有機的に結合提供された機能その物がサービスとして提供されて利用出来る時代になるんだろうなぁと。
オリジナルとコピーの境界線が限りなくなくなる時代になった場合、オリジナルとコピーの判別はどうするのだろうか。ソフトの場合は1bit単位で同じだから、それだけでは特定できないわけで、そうなると「オリジナル」「コピー」という区別が無意味になるのかも。そのソフトが提供するサービスを受ける権利があるかないかで、サービスとしてのオリジナルとコピーという位置付けが生まれてくるのかも。だから、オリジナルで作成されたデータは、オリジナルでのみ全機能が使用可能だけれど、コピーを使用した場合はその一部しか、例えば参照のみとか、利用出来ないような事も生まれてくるんでしょうね。そこで個人的に期待したのは、今の時代コピーと言いながらオリジナルと同じ物もいくらでも売れていくわけです。例えばある目的で作ったファイル、画像ファイルとかをトリミングしたりサイズ変更したりして、同等の物が幾らでも生まれてきます。あるいは、コピーしただけという場合も結構あります。バックアップなんかそうですよね。それらって、オリジナルと同じ物と言っても良いのでは。加工した場合も、そのオリジナルデータに加工手順という情報を追加すれば同じ物が生成可能なわけで、それはオリジナルデータとオリジナルプロシージャーというデータがあれば可能なもの。そこに必要に機能がサービスとして提供されるなら、ユーザーは両方のデータだけあれば良いわけで、それって人間が色々な作業を記憶していることと同じになってくるのかもしれない。
つまりは、データこそが命だと言う事を改めて思うわけです。それって、人間の喜びの一つが知識や経験(これも記憶)を増やしていくことと、実は同じ事では無いかとも思います。
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