2016年1月8日

対立の種

六曜を入れたカレンダーが、差別では無いかとクレームが付き一時配布を見合わせた話。最近では気にする人も減ってきていることもあるけれど、やはりそれなりに長い間日本の中で続いた「伝統・風習」と言うだけで、何で「差別的」とか「迷信を信じる」なんて言う話になるんだろうか。確かに、科学的に、例えば今度はいつ日食が発生するとか、今度はいつ彗星が空に現れるとか、科学的に説明できる事象では無いけれど、そう言うシステムを入れることで、多分当時の生活習慣とか回りとの付き合いでの摩擦が減って、上手くいくように生み出した「互助会的知恵」だと思うんですよね。そう言う意味で、一番効果的且つ大きな互助会システムが「宗教」なんじゃないかと。

元々は、多分自然の厳しい環境の中で生活していくために、不安とか恐れとか、あるいは集団生活を円滑に進めるための「知恵」として生まれてきたんじゃ無いかと思うんですよね。だから、古代にある程度の集団なりが生活していた地域で、多分そう言う考え方が生まれて集団のルールとして浸透し、その後人間が世界各地に移動する間に、その地域や集団の利益に沿うように、徐々に変化していったように思います。その後忠誠とかになると、ある程度社会システムも整備されてきたので、そこには暗黙のルールから明文化されたルールや考え方・目標が追加されていき、場合によっては集団管理のためのツールとしても使われたのかもしれない。そう言うことから、宗教団体みたいなものも生まれて、人心把握という意味では強い力を持っていたから、対立や粛正の対象にもなっていったんでしょうね。だから、一口に「キリスト教」と言っても、幾つかの会派が存在するし、仏教だってそう。基本的には、必要性からそう言う形に変化していったのでしょう。

で、中東で対立している、シーア派とスンニ派に関しても、両者はある意味180度異なる考えを持っているところも有り、その教義だけ見ると水と油の関係。だから、それだけが理由では無いけれど、ずっと対立が続いている。イスラム教に限らず、キリスト教なんかでも、宗教的に異なる会派同士では、正直余り仲良くは無いけれど、でも文明人として、そこは自分の宗教・会派とは異なっても、相手を尊重することを学んできているわけだし、何を誰が信じるのかはその人の自由なわけですよね。その部分を理解して受け入れないと、結局つまらない相違点だけを理由に、延々と対立していくことになってしまう。六曜のカレンダーにしても、確かに見方によっては何か差別するような事があるかもしれないけれど、差別することを目的に設定しているわけでは無いだろうし、だいたい現代においては一つの目安・切っ掛けとして利用しているに過ぎないことに、そこまで目くじら立てる必要も無いだろうというのが大人の態度では。何か、たまたま見つけた「種」をこれ幸いと利用して、自分だけが満足している気がする。

私の子供の頃などは、確かに差別とか無意味に相手を見下すような事が普通にあり、そう言うことに鈍感な時代だったけれど、最近は逆に一寸でもはみ出したら社会制裁するみたいな、逆に余りに敏感すぎる時代になってきたように思う。勿論、当時と社会的な規準も変わってきているから、時代によって当時はOKでも今はNGと言う事もあるから、そう言うことまで認めるつもりは無いけれど、余りに過剰に反応するのもある意味逆差別になるような気がします。昔のアナログ的な社会は、良いところも悪いところもああったけれど、ある意味両方が混在出来る余裕もあったように思います。でも、今のデジタル的社会は、兎に角ノイズ(=悪いこと)は許さない正義過ぎるヒーローしか許さない、堅苦しい時代になりつつあるような気がする。バックラッシュの無い歯車みたいだな。

0 件のコメント:

コメントを投稿