2015年8月31日

だから信用できない

この手の集会なりでは、昔から「主宰者発表xxx人、警察発表xxx人が参加して」と二つの数字がいつも報道されて、子供の頃はそれが凄く不思議でした。昔はそれでも、警察発表の何割増し位が主宰者発表として出ていた気がしますが、それがいつしか倍くらいの違いになり、さらには最近では数倍から一桁違うことも。昨日の国会前デモでも、主宰者は12万人で警察発表では3万人と4倍の違い。主宰者側としては、出来るだけ数を集めてそれをプレッシャーにしたいだろうし、警察側としても警備の必要上どれだけの人が参加しているのか把握する必要があるだろうし、そう言う意味では警察発表の人数の方が実際に近いだろうと最近では思っています。今回も区切りの良いところで「5万人参加」とでも言えば、まぁ説得力あるかなと思うんですが、12万人というと馬鹿馬鹿しくて笑ってしまう。

で、この手のデモには野党も陣中見舞いじゃ無いけれど応援演説に来るわけで、今回は民主、共産、社民、生活の4政党党首が来たよう。で「皆さんの力を貸して下さい」と絶叫するわけですが、それって大きな勘違いじゃ無いのか? これが、以前の小泉内閣時代の郵政民営化選挙とか前回のアベノミクス選挙のような、何か政治的テーマを論点に解散総選挙しているときなら、まだ分かるんですが、今の安保法制を止めるなり変更するなり出来るのは自分達国会議員だけなわけで、正直な話自分達がやらなきゃいけないことを国民に責任転嫁しているようにしか見えない。勿論、国民の意思表示として反対・賛成を主張することは自由であるけれど、それを利用している彼ら政党の責任はどうなるんだろうか。「必ず廃案にする」と言いながら、実差異問題として多数を握る与党が成立させることは確実なわけで、どう言う手段で「廃案」に追い込むのだろうか。出来ない事は分かっていながら、少しでも政党への支持を取り付けようとして言っているだけにしか感じられない。「廃案にする」なんていう出来もしないことを言うのでは無く、例えば実行要件を寄り厳しくするとか、事前承認のプロセスを明確にさせるとか、100%では無くても何らかの歯止めなりチェック機能を盛り込むくらいは出来ると思うし、そういう部分で与党と妥協していくのも民主政治としては重要なのでは。いつになるのか分からないけれど、次に民主党なり今の野党の何処かが与党になったときに、その時には正々堂々と廃案にすれば良いわけだし。「民意」を反映するのは政治家の仕事だと思うけれど、「民意」を利用するのはそうじゃ無いと思う。

いつもこういう集会とかデモの様子を見ていて思うんですが、本当に自然に集まってきたと言う雰囲気を感じられないんですよね。特に、事前に印刷して準備してきたようなプラカードとか、本来の主張とは関係無いようにメッセージとか(安保法制のデモなのに、反原発なんていうのは場違いだと思う)。これはこれで、上手く利用している、利用しようとしている人達がいるんだなと感じます。特に今朝の朝日新聞にこんな記事が掲載されているんですが、この60年安保にノスタルジーを感じている男性氏は、結局そのまま安保が締結されてどう言う不具合があったんでしょうか。「民主主義が定着した」と最後に言っているけれど、選挙で選ばれた国会議員が法律に則った方法で議案を成立させていくのも「民主主義」のはずなんですが。多くの人が反対しているというのであれば、先ずは信用できる数字を出すことから始めないと、それ以外の大多数の人達からの信任は得られないのでは? 単なる自己満足に巻き込むのは止めて欲しい。

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