朝日新聞の「素粒子」欄から、17日のコラム最後の部分を引用。
「昔はしょうゆだって借りたもの。隣近所のつきあいは薄くなり。日韓のお金の融通協定おわる。ああ金の切れ目。」
昨日で期限切れとなった日韓スワップ協定をけしからんと言っているみたいだけど、この文章を読んで違和感を感じることは、この文章の主体(主語)がよく分からないこと。日韓スワップ協定が、実質的に日本による韓国救済制度であったことを考えれば、「昔は醤油だって借りたもの」というのが、「昔は(困ったときには)米ドルを融通してもらったもの」と言う意味だろうから、これはお金を借りる側=韓国の意味ですよね。で、最後の「ああ金の切れ目」は、この後に「縁の切れ目」と続くのでしょうけど、それってそれまでお金を持っていた人がちやほやされていたのに、お金が無くなった途端に回りの取り巻きが居なくなることを言うはず。その状況を当てはめると、それまで好調だった韓国経済が、Samsungや現代等財閥企業の不調で低迷し始めると、それまでちやほや(?)してくれていた日本が掌を返してきた、と言う事を言いたいのだろうか。でも、お金を出すのは日本で、もらうのは韓国なんですけど?
いずれにしても、本来ならば日本の目線で、日本の視点で一言捻るのなら分かるけれど、どうも韓国目線で向こうからの恨み辛みを書いているようにしか感じられない文章。醤油・味噌の貸し借りなんて、最近の人にはピンと来ないだろうけど、それだって「持ちつ持たれつ」という意識あっての互助制度だと言う事を分かっているのだろうか。勿論、困っている人には、それが一方的になっても困ったときに手をさしのべるべきではあるけれど、だからといって自立しなくてよいと言う事でも無いし、自立してからも施しを当たり前と思ったら、与える方だって呆れます。困ったときには助けを求めるけれど、何とか目処が立ったらそこからは自ら頑張ろうという気持ちが有るから、回りだって手をさしのべてくれるわけです。それを理解していない気がする。「隣近所のつきあいは薄くなり」と書いているけれど、これって付き合う両方に責任があるわけですよね。
醤油を借りるときには「済みませんが」と一言詫びる。借りた後には「ありがとうございます」と御礼する。物質的なやり取りがイーブンにならなくても、そう言う心のやり取りで保管すれば、隣近所のつきあいは薄くならない。ただ、醤油や味噌等のもののやり取りと、お金のやり取りは全く異なるもの。お金っていうものは、例え同じ価値のものをやり取りするとしても、全く違う意識や感覚を双方に生むものです。それを同列に考えるのは、世の中を知らない証拠だと思う。そして、金の切れ目とそれまで施していた側が言うならまだしも、そのお金を当てにしていた側が言うのは筋違いでもあるし、不遜なだけ。言ってみれば「折角良い鴨だったのに」と嘯いているとしか考えられない。
朝日新聞の「天声人語」は、一番大学受験問題に参照されているとか盛んに宣伝していたけれど、「素粒子」で同様の事は聞いたことが無いのは、こういう兎に角相手を貶めたい、今風に言うと「Disる」事だけが目的の文章なんだなとよく感じますね。
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