2014年5月12日

フィクションとノンフィクション

昨日たまたま見ていた朝の番組での、ダウンタウン・まっちゃんの発言。私はこの発言を聞いた時に、凄く違和感を感じたわけで、その理由はなんだと考えて直ぐに思い浮かんだのが「フィクション」と「ノンフィクション」の境界線。「美味しんぼ」という作品自体は「フィクション」の話(架空の新聞社の架空の登場人物達の物語だから)なので、そう言う意味では彼の発言は正しいと思うんですよね。でも、今回も含めて、この話の中には「現実=リアリティ=ノンフィクション」のシーンが度々登場するわけです。つまり、フィクションの形態とったノンフィクション物語、みたいな感じ。

勿論、ノンフィクションとは言え、話の内容全てが架空の話では無いわけで、そこは虚実織り交ぜてストーリーを作る事で、物語に深みが出てきたり、リアリティが生まれたり、読者を引きつける魅力が生まれてくるんですよね。ただ、それはその作品の世界観なり背景世界の中に現実と同じような話が含まれていると言う事で、それは作品の背景世界という「フィクション」の一要素と同じなんですよね。

ところが今回の場合は、原作者氏が2年間も取材をして、その取材結果に基づく話であると明言しているわけで、名言はしていないけれど「ノンフィクション=事実」と言うことを言っているわけですよね。ちょっと汚いなと思うのは、決して「事実である」とは言わないで「取材した内容」とか言う言い方をしていて、しかもその内容発表に関しては「美味しんぼ」というノンフィクションの舞台でお困っているわけですよね。読者にしたら、「あぁ、現実の世界ではこうなっているんだ」という誤解を生むような、お膳立てをしている、という風に感じるわけです。

先日無くなった、山崎豊子氏は「社会派作家・社会派小説」として、現実に起こった事件や事故を題材に、多くの有名な小説を書いています。それらは、「ノンフィクション小説」であるのだけれど、「社会派」という冠がつくと、読者は現実の事件・事故にマッピングして、その書かれていることが「事実」と誤解するんですよね。勿論、正しい事や真実と同じ事が書かれているかもしれないけれど、「小説」という形態になった途端に、そこには演出や装飾、さらには創作が入るわけで、それは「ノンフィクション」ではない、と。でも、世間のメディアは「社会派小説」として、あたかもそこに書かれている内容が、登場人物の名称や肩書きは違っても、実は現実のあの人がこの人で、その人がこの人で、という誘導を生むんですよね。

「物語」というのは、仮にSFのような荒唐無稽な内容であっても、「現実」と思わせる仕込みが重要なんですよね。SFなら、いかにもありそうな現実と架空の技術を積み重ねて構築したりとか、推理小説だと実際の交通機関を利用してトリックを作ったりとか。今回の場合は、鼻血の件で医者に「放射能との関連性は無い」という場面を出しつつ、元双葉町町長に「鼻血が止まらない、同じ様な人が沢山いる」という場面も出している。読者にどちらが正しいのか判断させたいのなら、それぞれ客観的なデータを明示するべきだし、どうも今後の展開を見ると後者の意見の流れに誘導使用としている雰囲気もあるし。フィクションであるならそう言えば、そこに書かれていることはフィクションなのだからどんな話にしても文句は言われないし、まっちゃんの意見も正論だと思うけれど、それを言わずにあたかも真実のような雰囲気で話を進めることに、個人的には抵抗を感じるわけです。

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